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2015年6月23日火曜日

話題のホルムズ海峡で起きた”タンカー戦争”

安全保障関連法案の審議が続いていますが、今議論が集中しているのは集団的自衛権の部分ですね。閣議決定された自衛隊の武力行使を認める新三要件では、個別的自衛権・集団的自衛権かに関わらず、これを満たせば武力公使を可能としていますが、まずは全文を見てみましょう。


  1. 我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること 
  1. これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
  1. 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと


この新三要件では、特に1が集団的自衛権に関連しますね。この新三要件を満たす状況の具体例として、政府は以下の様なホルムズ海峡での掃海活動を挙げています。


二つ目は、ホルムズ海峡での機雷敷設です。
海洋国家である我が国にとっては、国民生活に不可欠な資源や食料等を輸送する船舶の安全確保は極めて重要です。我が国が輸入する原油の約八割、天然ガスの二割強はホルムズ海峡を通過しており、ホルムズ海峡はエネルギー安全保障の観点から極めて重要な輸送経路となっています。
仮に、この海峡の地域で武力紛争が発生し、ホルムズ海峡に機雷が敷設された場合には、かつての石油ショックを上回るほどに世界経済は大混乱に陥り、我が国に深刻なエネルギー危機が発生し得ます。
平成27年2月16日衆院本会議での安倍総理答弁


これらの政府答弁から、頻繁にホルムズ海峡での機雷掃海という言葉が挙がるようになりました。しかし、ホルムズ海峡と言っても、なんでそこが例として出されるのか、疑問に思われる方も多いのではないでしょうか。

今回は、このホルムズ海峡がどういう所なのか、過去にどういう事があったか見てみましょう。



タンカーが狙われた”タンカー戦争”

ホルムズ海峡は世界有数の産油地帯であるペルシャ湾への出入口となる海峡で、最も狭い所で幅が約33キロメートルほどしかありません。

ホルムズ海峡(Google Earthより)


安倍総理の答弁通り、日本の原油を運ぶタンカーは、この場所を頻繁に往来しています。湾岸諸国で算出される原油は、主にアジア向けに輸出されており、日本を支える重要なライフラインでもあります。

ところが、このホルムズ海峡周辺の国際情勢は度々緊迫しています。

1980年に勃発したイラン・イラク戦争は、当初はイラク優勢に進んでいたものの、次第に国力に勝るイランが優勢になりました。和平に応じないイランに経済的圧力をかけるため、イラクはイランの石油基地のあるカーグ島周辺での船舶の通行を禁止し、1984年3月17日にはギリシャ船籍のタンカーをミサイル攻撃したのを皮切りに、無差別タンカー攻撃を開始しました。イランもタンカーへの報復攻撃を行ったため、「タンカー戦争」と呼ばれる事態になりました。1988年4月にはタンカー護衛にあたっていた米海軍のフリゲート艦が、イランが敷設した機雷により損傷し、報復にイラン海軍を攻撃する事態にもなっています。

ペルシャ湾でタンカーを護衛する米海軍艦艇(Wikimediaコモンズより)

このタンカー戦争により、1988年8月の停戦までの4年5ヶ月で、407隻の船舶が被弾、12隻が機雷に接触、333名の死者と317名の負傷者を出しました(出典:河島義夫「ペルシャ湾タンカー戦争と日本船社の安全運行対策」『国防』1989年5月)。また、日本人が乗船する船に対して、イラクは攻撃しなかったものの、国籍不明あるいはイランによる攻撃は12隻が受け、日本人船員も2名が死亡しています。他にも、船舶にかけられる保険料が10倍にまで高騰するなど、当地の海運に深刻な問題を起こしました。



原油供給に深刻な影響を与えなかったタンカー戦争

このように日本への被害もあったタンカー戦争ですが、攻撃が散発的で海峡封鎖という事態にはならなかった事から、中止や再開を繰り返しつつもタンカーは行き来しておりました。幸いな事に、この頃は今ほど石油の世界需要も高くなかったので、タンカー戦争は原油価格にほとんど影響も無く、円高が進んでいた事も手伝って、「かつての石油ショック」のような経済への悪影響は目立ちませんでした。

ドバイ原油価格推移(http://ecodb.net/pcp/imf_usd_poildub.htmlより)


しかし、現実的に今、ホルムズ海峡で通行の安全が、タンカー戦争以上に脅かされる事態になったらどうなるでしょうか? 原油価格はタンカー戦争時と比べて遥かに高騰しており、仮にホルムズ海峡封鎖という事態になると、原油価格と供給に与える影響は計り知れない、という主張もそれなりに意味はあるかもしれません。



ホルムズ海峡での機雷掃海。どこまで現実的?

しかし、逆説的に言えば、海峡封鎖にまで事態が発展すると、あまりにも重大過ぎるので日本だけの問題で済まないし、日米の問題にも留まりません。近い将来にホルムズ海峡で海峡封鎖があったとしても、事の重大さから大国が中心となって問題国に対する武力行使がなされるでしょうし、そこで自衛隊による機雷掃海の出番があるかというと、タンカー戦争ではほとんどが航空機からの爆撃被害だった事を考えると、戦後に少数の機雷を掃海する程度ではないでしょうか。そして、停戦後の機雷掃海は、集団的自衛権が認められていなかった時でも、湾岸戦争後に自衛隊が行っていました。

そしてなにより、ペルシャ湾岸諸国ではイランとアメリカとの関係改善が本格化しており、現時点でホルムズ海峡で何か起きるかというと、その可能性は相当低いもので、果たして具体例として適当かというと相当の疑問が残ります。

唐突にホルムズ海峡が飛び出てきた事は審議混乱の一因もなっており、せめて「過去にはホルムズ海峡周辺で日本の民間船舶が攻撃を受け、日本人の死者も出している。このような危険の回避策に乏しいチョークポイントにおいて、緊急事態が継続的に進展していった際は~」くらいの説明に留めていおいて、いきなり「ホルムズ海峡での機雷掃海」みたいなド直球なのは避けた方が無難ではなかったか、と思うのですがどうでしょうか。

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2014年7月26日土曜日

2つの「避難」を巡る朝日の記事への違和感

とても違和感というか、モヤモヤとしたものを抱かざるを得ないニュースがあった。
気になったのはdot.asahi.comに掲載された、AERAの以下の記事のこの部分。

ただ、憲法改正に前のめりな安倍晋三首相の「妄想狂的なところ」に怖さを感じ、第2次安倍政権が発足した後、5歳の長男にも英語教育をほどこし始めた。いざというときの海外避難に備えて外貨預金をし、家族全員のパスポートも常備している。

閣議決定後、夫婦の会話は娘の中学受験の話から、集団的自衛権に変わった。政治に関する本を読み始め、少子化や高齢化についても考えをめぐらせる。

「特定秘密保護法も集団的自衛権も、来るものが来たなという感じ。自分の家だけで海外に逃げていいのか。ほかのお母さんたちがどんな思いなのかを知りたい」


集団的自衛権について、朝日等の反対メディアの論調は論理の飛躍や感情論を前に出しすぎていて、正直気味が悪いと思っていたけど、ここまで来るとさすがにドン引きである。

「危険からの避難」は万人に認められた権利であるが、実際の避難に際しては避難コストが問題になる。避難コストは金銭的な面だけでなく、それまでの居住地で築いてきた有形無形の資産――例えば土地や住宅、職や教育、人間関係といったモノ――を全て放棄することになり、言わば難民になる事を選択したようなものだ。そう簡単に避難は決断出来るものではない。

しかし、この記事中の母親達は真剣に国外避難を考えている。安部首相を「妄想狂的」と記事中の母親は述べているが、現状の集団的自衛権行使容認を戦争に直結し、生活を根本から破壊する国外避難を選択肢に入れる方こそ「妄想狂的」だと思う。娘の中学受験の話を放ったらかして、集団的自衛権の話ばかりしているのは明らかにおかしいだろう。

繰り返すが、避難コストは馬鹿にならない。フィクションの話だが、映画「インデペンデンス・デイ」の小説版では、宇宙人の母船が東京上空に来たにも関わらず、普段通りの生活と社会を維持しようとしていた東京の住民はほとんど避難せず、宇宙人の世界同時攻撃で東京は世界都市の中でも甚大な人的被害を被ったという描写がなされる。このように決定的破滅の予兆があっても、多くの人は避難を決断出来ない事は、先の東日本大震災と原子力発電事故でも、被災者以外の避難者がほとんど出ていない事が証明しているだろう。

しかし、危機の最中の情報が錯綜した状況が過ぎ、危険の恐れが無いと分かった今もなお続く行き過ぎた避難に対しては、冷静な目が向けられて然るべきだろう。そして、朝日新聞は過去にそういう記事を書いている。

「日本が終わる」。東京電力福島第一原発の事故後、そんな恐怖に襲われ、妻と子ども、弟夫婦の5人で九州に逃れた。原発がない場所を求め、縁もゆかりもない沖縄へ。ようやくマスクを外すことができた。

放射能は「他のリスクと根本的に違う」と語る。「目に見えないし、情報も玉石混交で、わからないことが多い。だから怖い」

「安心して買い物できる環境を」と7月に食品の放射線測定会社を設立したが、まだ軌道に乗らず、貯金を切り崩す生活が続く。

弟の丹さん(33)も会社を辞めて一緒に沖縄に来た。「僕は東京で被曝(ひばく)したので、10年もすれば病気になる」と真剣に話す。

(中略)

政府やメディアには強い不信感がある。一時は信頼していた学者も「東京はもう安全」と言うのを聞いて信じるのをやめたという。

自分の確信を裏付ける情報だけを探しているのでは。そう問うと、谷中さんは声を震わせた。「真実は私の体の中にあります」




この朝日記事は客観的に物事を伝えつつ、自分だけの真実を追求するあまり避難による生活破壊を厭わない人々について、読者に「この人達おかしい」と異常性を感じさせる構成になっている。この記事はかなり的を得た所があり、実際にこの記事中で紹介されている人物の一人は侮辱容疑で告訴され、今年5月に起訴猶予処分(被疑事実は明白であるが、起訴は見合わせる処分)を受けており、今も「私のツイッターはコントロールされている」と被害妄想を主張しており普通ではない。

そして、この記事と先のAERA記事を読み比べてみよう。原発避難者と集団的自衛権避難者の行動様式は大変良く似ているが、記事の書き方次第で意識高い人にも異常者にも描き分ける事が出来ると分かるはずだ。

原発避難者と集団的自衛権避難者は重なる所が多い。政府や学識者を信じず、「政府やマスコミが隠そうとする真実」を追い求め、根拠が薄弱な情報でも自分の確信を裏付けるものを信じ、内輪だけのグループで内輪だけで通じる会話を介して先鋭化し、自身の主張を出版し続けている。これら共通点は先の朝日記事で書かれている事をなぞっただけに過ぎないが、集団的自衛権行使容認で国外避難を考える人達にも当てはまる。

集団的自衛権行使を巡る議論で問題はあっただろうし、懸念される対米追従で逆に国益を害する可能性もあるだろう。しかし、集団的自衛権行使容認を戦争に直結するかのような飛躍は正常だろうか。戦争禁止の規定がある憲法を持つ国は日本だけで無いし、それらの国も国連憲章で認められた集団的自衛権を保持している(そもそも日本も権利は持っている)。集団的自衛権行使容認を戦争に直結させ、国外避難の準備を始める(そもそもどこに避難するのだろう?)のは、データ的裏付けに乏しい原発避難者とどう違うのだろうか。

むしろ、事実として原発はメルトダウンしており、データ的裏付けは無くとも被害を心配するのは無理からぬ事かもしれない。逆に、発生してもいない戦争から、自身の生活を破壊する国外避難を検討するのは異常に尽きるだろう。にも関わらず、朝日は前者を明らかに異常と感じさせる記事を書く一方で、後者を肯定的に報じている。これはあまりに無節操だろう。

娘の進学問題を話さずに集団的自衛権の話ばかりする親も、避難リスクと被曝リスクを天秤にかける事無く子供の為だと避難する親も、共通するのは家族への関心の低さだ。本人は子供の為と言いつつも、実は自分の事しか見ていない。一方は持ち上げて、一方には冷淡な朝日も、自身の政治的主張に利用できるかそうでないかの尺度で考えてはいまいか。



【関連書籍】

インデペンデンス・デイ (徳間文庫)

個人的に好きなインディペンデンス・デイ小説版。基本ラインは映画に沿ってますが、映画で描かれていない部分が結構おもろいのです。


長有紀枝「入門 人間の安全保障 - 恐怖と欠乏からの自由を求めて (中公新書)」

「避難する権利」とはなんぞや? という方へ。「恐怖」と「欠乏」からの避難が「人間の安全保障」の基本理念なんだけども、本記事は原発避難では実態に基づかない恐怖から避難をするあまり、欠乏に自ら突っ込んでいる人が多いよね、という話でもある。



2014年7月20日日曜日

「のび太が武装しても自分を守れますか?」の答え

「のび太が武装しても自分を守れるかな?」→「自分も守れるし、他人も守れます」

集団的自衛権の行使容認の閣議決定がなされてから3週間が過ぎようとしていますが、未だに議論は尾を引いて続いております。

そんな中、集団的自衛権について、高校生に教える授業が北海道で開かれたと朝日新聞が伝えております。

川原さんと伊藤さんは、「ドラえもん」を例に話を進めた。米国は「ジャイアン」、日本は「のび太」。安倍晋三首相は集団的自衛権の行使容認で「日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなっていく」と胸を張ったが、「のび太が武装して僕は強いといっても、本当に自分を守れるかな」と川原さん。生徒はみな顔を上げ、考えこんだ。


はい、ドラえもんに詳しい方ならもう苦笑していると思いますが、この川原教師と伊藤弁護士、そして「のび太が武装しても自分を守れるかな」という記事を書いた朝日新聞の河崎記者(あるいはデスク)は、ドラえもんを読んだ事も観た事も無いのが丸わかりですね。のび太の数少ない特技があやとりと射撃なのは、ドラえもんの基本設定なんですが……。

ドラえもん全作を通じたのび太の射撃の腕前については、ブログ「遠足新報」「のび太の特技分析・射撃編―「スナイパーのび太」の射撃シーン全リスト」でまとめられています。それによると、のび太は射撃が得意という設定初出は、12巻所収の「けん銃王コンテスト」だそうです。

そして、24巻「ガンファイターのび太」で、のび太は無類の強さを発揮します。この話では射撃ゲームで世界最高記録を出したのび太が、西部開拓時代にいたら有名なガンマンになれるかなと得意になった所、ドラえもんにバカにされたのに怒って、タイムマシンで1880年の西部開拓時代のアメリカに行ってしまいます。ここで街で暴れていたギャング2人を実弾で倒したのび太(倒した後泡吹いて倒れますが)は街の保安官に任命され、街を襲うギャング団と対決することに。


最終的にのび太は、撃たれた相手を眠らせるドリームガンで街を襲ったギャング団30人を全滅させます。このようにのび太は臆病ですが、武装させると滅法強いという設定なのです。今月から全米でドラえもんが放映されているそうですが、イジメられっ子だけど射撃が上手いというのび太の設定は、銃社会アメリカではコロンバイン高校銃乱射事件を彷彿とさせるので、封印されそうな気がします。

このように、川原教師と伊藤弁護士の「のび太が武装しても自分を守れるかな」という問いかけに対しては、「出来ます。自分どころか外国の街を守れます。まさに集団的自衛権ですね」と答えるのがベストアンサーなのがお分かり頂けたと思います。てか、この川原教師と伊藤弁護士は、ドラえもんを知らないどころか、人間としてののび太を馬鹿にし過ぎで、他人を劣っていると見る浅薄な思想の持ち主である事が窺えます。



集団的自衛権行使から核抑止までするドラえもん

このような「ジャイアン=アメリカ」、「のび太=日本」とするドラえもんの例え話は、左派系の人が安全保障問題を語る時に、好んでしております。例えば、民主党(2010年まで社民党)の辻元清美議員も、過去にこんな事言ってます。

中曽根康弘元首相の世代は敗戦コンプレックスだったと思う。首相は米国のような大国を夢見る国家主義的。 日本はジャイアン(米国)にいじめられるのび太か、と言えば(ジャイアンにすり寄る)スネ夫なんです。 私は日本はのび太でいいと思う。 ドラえもんという憲法9条があるんだから。

出典:日経新聞 2002年5月23日

ドラえもんが憲法9条、ですか。では、ここで他にも映画にもなった大長編ドラえもんの話を見て行きましょう。

のび太の宇宙小戦争(リトル・スター・ウォーズ) 」ストーリー

軍部のクーデターにより地球に逃れてきたピリカ星の大統領とのび太・ドラえもん達が出会い、共闘し、最終的に軍部を倒して政権を奪還する。

→軍事的脅威に脅かされた他国の元首を助ける、集団的自衛権の行使

のび太と鉄人兵団」ストーリー

ロボット惑星メカトピアの鉄人兵団による地球侵攻と地球人奴隷化計画を察知したドラえもん・のび太が、現実世界に似せた鏡面世界に鉄人兵団を誘い出して迎え撃つ。

→本土決戦を回避し、周辺地域での戦闘に限定することで被害を極限する明治日本の防衛戦略

のび太とアニマル惑星」ストーリー

犬猫等の動物型知的生命が暮らすアニマル星に、人間型宇宙人が侵攻。平和だったアニマル星に軍事力は無く(警察は麻酔弾しかない)、ドラえもんのひみつ道具で武装して対抗する。

→軍事顧問団の派遣と武器供与による抵抗


わあ凄い。ハリウッド映画かと思うようなストーリーの数々。そう、大長編ドラえもんはキレイ事だけで済まさない、かなりシビアな話が展開するのです。

中でも極めつけは「のび太と雲の王国」。雲を固定化するひみつ道具で、のび太一行は雲上に雲の王国を作ります。ところが偶然、雲上で文明を築いてた天上人の世界を発見し、のび太一行は天上人と交流を持つが、天上人は地球環境を破壊する地上文明を大雨で一掃する「ノア計画」の実行に移ろうとしていた……。

「雲の王国」が凄いのはここから。天上人の計画に気づいたドラえもんは、計画を阻止すべく切り札を用意する。



地上文明破壊を決意した天上人に、ドラえもんはそっちがやるんならこっちも滅ぼすぞと脅しをかけます。核抑止に匹敵する力を見せつける事で、相手を交渉の席に着かせようしているのです。

さらに凄いのは、天上人に捕まっていた地上の密猟者達が、雲の王国を乗っ取ってしまう展開。密猟者達は天上人への報復に雲もどしガスを使い、天上人の領土の1つ(北海道並の大きさ)を破壊する。更なる惨劇を防ぐため、ドラえもんは雲もどしガスのタンクに自ら激突させ、破壊されたタンクから漏れ出したガスにより雲の王国は消滅する。ドラえもんの自己犠牲により、天上世界は救われる。

大量破壊兵器による力の均衡に、その均衡が内部的要因で崩壊して破滅に至ろうとするも、最後は自己犠牲で救われる話を子供向けでやるんですから、藤子・F・不二雄先生は本当に凄い人です……。このように、集団的自衛権の行使から、自己犠牲による世界救済までを描いているドラえもんの作品世界は、少なくとも憲法9条を絶対視する左派系の人の対極にあると思われるのですが、いかがでしょうか。

そもそも、野比家は祝日に国旗掲げるような保守的な家だったりするのですが、左派系の人がなんで度々例えに出すのか、イマイチわかりません。安全保障でドラえもんを持ち出す人達に、原作に対する愛は微塵も感じられず、政治利用のためだけに作品を利用する最低の行為ばかりで、どれだけ醜い事を自分たちがしているのか自覚が無いんでしょうか。あ、自覚や愛もあったらそもそもしないか。



【関連書籍】

ドラえもんは二十歳過ぎてから読むのが面白い(ホント)










2014年7月14日月曜日

沖縄タイムスのおかしな「元自衛官」インタビュー記事

集団的自衛権の行使容認が閣議決定されてから2週間が経とうとしていますが、集団的自衛権を巡る報道は未だ冷める気配がありません。

そんな中、沖縄タイムスの元自衛官へのインタビュー記事、「集団的自衛権で辞職 元自衛官インタビュー」がTwitter上で話題になっているのを見かけました。さてどうしたと記事本文に目を通すと、記事のあまりの荒唐無稽さに驚きました。本当に実在する自衛官にインタビューされたのでしょうか。詳しく見て行きましょう。

この記事は7月14日付けで沖縄タイムスの公式サイトに掲載されました。記事は集団的自衛権の行使容認により、自衛隊が「軍隊」となることを危惧して、3月に退職した元自衛官へ集団的自衛権についての考えをインタビューしたものです。

命は惜しい―。政府が集団的自衛権の行使を容認するために、憲法解釈を変える閣議決定をしてから約2週間。海外での武力行使が現実になろうとしています。自衛隊が「軍隊」化することを危惧し、3月に辞職した20代の元自衛官に、集団的自衛権について、どう考えているのか、聞きました。


この冒頭は分かります。自衛隊は日本でも最大級の組織で、様々な考えを持った人が勤務しています。個人の信条として、軍隊化を忌避する人がいても不思議ではありません。しかし、個人の信条はともかく、自衛隊での経験を話しだすと、途端に疑問符が付きます。

安倍政権になってから、内容が大幅に変わりました。人を標的とする訓練が始まりました。これまでは、相手を捕獲することが基本でしたが、もう今までと違います。軍隊としか思えません。


この元自衛官が自衛隊のどの部署にいたのか、この記事では明らかではありませんが、人を標的としないで、捕獲する事を基本とする軍隊(ここでは敢えてそう書きます)とは一体何でしょうか。銃ならまだしも、ずっと以前から行われていた戦車砲やミサイルを撃つと言った訓練が、捕獲を前提にしている訳がありません。本当にこの元自衛官の言っている事が本当なら、むしろ以前の方が問題だと言わざるを得ません。爆弾落としてから相手を捕獲に行くと、真面目に言う組織があったらあまりに悪趣味だと思います。

他にもこの元「自衛官」の発言におかしな所は多々ありますが、沖縄タイムスがインタビューを恣意的に使っている節があります。集団的自衛権行使容認の閣議決定は7月に行われました。しかし、記事中にはこうあります。

―なぜ自衛官を辞めたんですか。

今回の集団的自衛権容認の閣議決定で、海外の「戦闘」に加わることが認められるようになります。自衛隊は、人を殺すことを想定していなかったのでまだ、「仕事」としてやれましたが、今後はそうはいきません。昇任試験も合格したばかりで、自衛官を続ける道もありましたが、戦争に加わって命を落とすかもしれません。命は大事です。


この自衛官は今年の3月に辞めたにも関わらず、記事タイトルは「集団的自衛権で辞職」になっており、辞職理由に集団的自衛権の行使容認を紐付けるには時間的に無理です。集団的自衛権行使容認の動きを懸念して辞職したならば、3月辞職でも分かりますが、「なぜ自衛官を辞めたんですか」の質問の後に、「今回の集団的自衛権容認の閣議決定で~」と返すのはあまりに不自然です。元「自衛官」の素性が怪しいか、記者がインタビューを相当曲解をしたと解釈するのが妥当でしょう。

集団的自衛権行使容認を懸念するのも分かりますし、安倍内閣を批判するのもいいでしょう。ただ、目的の為に手段を選ばない報道をするのはどうなんでしょうか。



【関連書籍】




2014年7月6日日曜日

時代と共に変わってきた集団的自衛権の憲法解釈

これまで憲法解釈上認められてこなかった集団的自衛権の行使が、解釈の変更により認められるようになった事は、各種報道でご存知の方が大半と思います。

この解釈変更について報道各社は様々に報じていますが、「歴史的な転換」、「憲法の柱」等、解釈変更の重大性、歴史性を強調する論調が目立ちます。特に目立つのは、憲法9条では個別的自衛権のみが認められており、これが憲法の平和主義の根本だ、とする論調です。
 安倍内閣は1日夕の臨時閣議で、他国への攻撃に自衛隊が反撃する集団的自衛権の行使を認めるために、憲法解釈を変える閣議決定をした。歴代内閣は長年、憲法9条の解釈で集団的自衛権の行使を禁じてきた。安倍晋三首相は、その積み重ねを崩し、憲法の柱である平和主義を根本から覆す解釈改憲を行った。

 戦争放棄をうたった憲法9条と自衛権の関係をめぐる政府の解釈は、これまでも日本の安全保障環境の変化に伴って変遷してきた。限定的とはいえ、集団的自衛権の行使を可能にする今回の閣議決定は、個別的自衛権の行使を認めた1954年以来の大転換となる。

しかし、集団的自衛権を認めないとする解釈は、日本国憲法施行の後になって成立しており、解釈も時代により異なっていた事は、あまり報じられていないようです。集団的自衛権を、どのように政府は解釈していたのでしょうか。その変遷の過程を見て行きましょう。(※以降の引用部における強調部は全て筆者による)



「解釈に自信が無かった」集団的自衛権の始まり

集団的自衛権について、国会で最初に答弁が行われたのは、1947年12月21日の衆議院外務委員会の席上の事でした。当時の西村外務省條約局長の発言の中に出てきています。
ただ一つ新しい現象といたしましては、国際連合憲章の今申し上げました第五十條か五十一條かに、国家の單独の固有の自衞権という観念のほかに、集団的の自衞権というものを認めておりまして、そういう文字を使つております。この集団的自衞権というものが国際法上認められるかどうかと、いうことは、今日国際法の学者の方々の間に非常に議論が多い点でございまして、私ども実はその條文の解釈にはまつたく自信を持つておりません。

出典:西村熊雄 外務省條約局長の答弁(第七回国会 衆議院外務委員会議事録第一号)
この時点で、集団的自衛権については国際法学者でも議論があり、政府としても解釈が存在しなかった事が窺えます。念の為に書いておきますが、この答弁の前年に日本国憲法は公布されていおり、集団的自衛権についての憲法解釈は存在していませんでした。

翌年の同委員会において、中曽根康弘議員からの質問に際し、西村局長はこうも答えています。
中曽根康弘議員「そこでお聞きいたしたいと思うのでありますが、この集団的自衛権の問題です。それは国家の基本権として、国家が成立するからには当然認められる権利なんですか。」

西村局長「もちろんそう考えております。」

出典:第七回国会 衆議院外務委員会議事録第七号
少なくとも、この時点では集団的自衛権そのものについては議論があるものの、独立国家の基本権として認められる権利であろうとの見解です。これら最初期の国会答弁で確かなのは、集団的自衛権は独立国の権利として存在するが、独立国としての日本(当時は連合軍占領下)に認められるものかは曖昧なままであるばかりか、集団的自衛権そのものの解釈も怪しい状況でした。

朝鮮戦争の最中の1951年、国会答弁で初めて集団的自衛権についての解釈が登場します。西村條約局長の2月21日の答弁を見てみましょう。
集団的自衛権というものは一つの武力攻撃が発生する、そのことによつてひとしくそれに対して固有の自衛権を発動し得る立場にある国々が、共同して対抗措置を講ずることを認めた規定であると解釈すべきものであろうと思うのであります。

出典:西村局長(第十回国会 衆議院外務委員会議事録第六号)
ここで初めて、集団的自衛権についての解釈が出てきます。ですが、日本国憲法との関係は未だ明らかでありません。ようやくこの年の11月7日になって、日本国憲法における集団的自衛権の解釈が登場します。
日本は独立国でございますから、集団的自衛権も個別的自衛権も完全に持つわけでございます、持つております。併し憲法第九條によりまして、日本は自発的にその自衛権を行使する最も有効な手段でありまする軍備は一切持たないということにしております。又交戦者の立場にも一切立たないということにしております。ですから、我々はこの憲法を堅持する限りは御懸念のようなことは断じてやつてはいけないし、又他国が日本に対してこれを要請することもあり得ないと信ずる次第でございます。

出典:西村局長(第十二回国会 参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録十二号)
ここに至り、日本は集団的自衛権を持つが憲法上行使できないという、違憲解釈の原型が示されました。日本国憲法公布から5年を経て、初めて解釈が示されました。この基本に沿った違憲解釈は1972年に決算委員会資料、さらに1981年の答弁書(答弁書本文)の2文書に記された事によって確立されたとされています。

このように、集団的自衛権の違憲解釈は憲法よりずっと後に確立したもので、最初から憲法で禁止されていたとは見做されてませんでした。



禁じられていなかった集団的自衛権の行使

ところが問題はまだ残ります。どこまでを集団的自衛権と看做すのかという点です。1960年、林修三法制局(現・内閣法制局)長官はこのような答弁をしています。
たとえば現在の安保条約におきまして、米国に対して施設区域を提供いたしております。あるいは米国と他の国、米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと、こういうことを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、こういうものを私は日本の憲法は否定しておるものとは考えません。

出典:林修三法制局長官(第三十四回国会 参院予算委員会会議録第二十三号)
ここで林長官は、経済的援助や基地の提供等は憲法も否定していないという見解を述べています。現実に1991年の湾岸戦争は、クウェートを侵略したイラクに対する集団的自衛権集団安全保障の行使の典型例ですが、日本は多国籍軍に対して経済的な支援を行っています。

また、現在の複雑な国際環境においては、個別的自衛権と集団的自衛権を厳密に分けるのが難しいという問題もあります。この問題について、日米安保条約・在日米軍が憲法9条に反し違憲であると争われた砂川事件の1959年最高裁判決の中で、田中耕太郎最高裁長官は補足意見としてこのように述べています。
今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従つて自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。

この判決の中で、田中最高裁長官は自衛の概念について、他衛も自衛も同様の物であるとした上で、それが各国の義務であるとしています。この解釈に立てば、集団的自衛権の行使は否定されておらず、もちろん違憲ではありません。

このように1959年の最高裁長官、1960年の法制局長官は、集団的自衛権の行使を部分的に認めていました。しかし、1960年代以降は国会での駆け引きの結果、先の2文書に見られるような内閣法制局による違憲解釈が取られるようになりました。

本来、憲法解釈について、単なる行政府の一機関である内閣法制局による判断が、総理大臣、果てや最高裁判所長官の判断に優越するなんて事はありませんし、現在の内閣法制局長官は変更解釈の変更は可能としています。憲法解釈そのものを「憲政の破壊」とする一部報道こそ、憲法とその解釈確立と変遷を無視した、憲法を蔑ろにする行為であると言えます。



憲法9条と国際協同体に対する義務は矛盾しない

最後に。世界で集団的自衛権の概念を初めて明示した国連憲章ですが、その第43条に国際平和が脅かされる事態に際して「すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き且つ一つ又は二つ以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する」と、国連加盟国による兵力供出を義務付けています。これはまさに集団的自衛権そのものですが、かつての集団的自衛権行使を認めない解釈では、この国連憲章の義務の履行は出来ません。これは集団安全保障として機能する建前ですが、現実的には大国の拒否権により国連安保理で否決される可能性が高い為、地域機構による安全保障を可能とする概念として、集団的自衛権が誕生しました。そして、アメリカの集団的自衛権に依存した安全保障が、日米安保条約です。

今回の解釈変更により、集団的自衛権の行使が可能となりましたが、国連の集団安全保障に基づく派兵についてはどうでしょうか。
このような憲法9条解釈と国連憲章43条の国際協同体に対する義務の相剋について、砂川事件判決文にこのように記されています。
憲法九条の平和主義の精神は、憲法前文の理念と相まつて不動である。それは侵略戦争と国際紛争解決のための武力行使を永久に放棄する。しかしこれによつてわが国が平和と安全のための国際協同体に対する義務を当然免除されたものと誤解してはならない。我々として、憲法前文に反省的に述べられているところの、自国本位の立場を去つて普遍的な政治道徳に従う立場をとらないかぎり、すなわち国際的次元に立脚して考えないかぎり、憲法九条を矛盾なく正しく解釈することはできないのである。

半世紀以上前の文章ですが、まるで現在を見通したかのような内容です。国際的な視野に立ってこそ、憲法9条は矛盾なく解釈する事が可能であり、国際協同体の義務履行と憲法9条は矛盾しない事が謳われています。

ここまで見てきた事から、憲法解釈は時代とともに変わってきた事、過去に集団的自衛権の行使を認めた解釈が存在した事がお分かり頂けたと思います。今回の憲法解釈の変更は、半世紀前に示された国際協調への回帰とも言えるでしょう。

しかし、理想の実現も大事ではありますが、理想の実現に大きな代償を支払わされる時が来るかもしれず、代償を払っても実現できる保証はありません。今回の憲法解釈変更を巡る議論は観念的なものが目立ち、賛成・反対双方で現実的なシチュエーションとリスクについて徹底的な議論がなされたとは思えません。そもそも、憲法前文に掲げる日本の理想とは何か、どのように実現していくのかという根本的な疑問について、今まで真剣な議論がなされた事があるでしょうか。それ以前に、憲法前文を知っている方がどれだけいるでしょうか。

これを機会に、日本国民が目指す理想とは何か、考えてみてもいいかもしれません。

※2014/07/06 22:10訂正:国連憲章51条に基づく集団的自衛権と集団安全保障について混同が見られるとのご指摘を受け、当該部を訂正致しました。赤字部分が追記となります。

【参考資料、及び理解の助けとなるサイト】

鈴木尊紘「憲法第9条と集団的自衛権 ―国会答弁から集団的自衛権解釈の変遷を見る―」(国立国会図書館)

国会図書館政治議会課憲法室の鈴木氏による、集団的自衛権を巡る国会答弁の変遷過程についての分析。解釈の変化について、時代毎に政府答弁から抽出し、時勢によりどのような議論がなされたかを明らかにしています。


苅部直 「「右傾化」のまぼろし――現代日本にみる国際主義と排外主義」(nippon.com)

東京大学法学部の苅部教授による「右傾化現象」についての考察。集団的自衛権行使容認は右傾化ではなく、戦後の憲法思想史においては集団的自衛権は日本国憲法の国際協調主義に合致するとの「積極的」意見が存在した事を提示。むしろ、右傾化への懸念を、粗野なナショナリズムを抑えた論議に繋げるよう提言しています。


細谷雄一「集団的自衛権をめぐる戦後政治」 IIPS Quarterly 第5巻第2号(2014年4月)

細谷雄一「集団的自衛権の行使容認に関する閣議決定」(細谷雄一の研究室から)

慶応大学法学部の細谷教授による論考とブログ記事。論考では佐藤政権時の転換により、その後の憲法解釈が拘束されるていく変遷過程を示し、その解釈の変更の必要性が何故必要かを論じています。ブログ記事では、各種の報道や国際的反応を踏まえた上で、これまでの解釈の問題点について分かりやすくまとめられています。


森本敏「武器輸出三原則はどうして見直されたのか?」

本稿では言及しませんでしたが、集団的自衛権の行使容認については、武器輸出三原則の変更も密接に関連しています。その背景について、元防衛大臣で拓殖大学大学院の森本教授が、防衛当局者の座談会をまとめるという形で明らかにしています。