一昨年の7月にアップしました「幻のてき弾銃」にて、自衛隊で開発試作が行われたものの装備化に至らなかった国産てき弾銃について取り上げました。試作品試験の映像と限られた資料の中、開発の経緯や顛末について推測を交えつつ取り上げてみましたが、依然として判明しないことが多く、執筆後も調査を継続して行っておりました。調査の結果、いくつかの新資料を得ることができましたので、新年第一弾の記事は「幻のてき弾銃」の続報をお届けしたく思います。
【一昨年アップのてき弾銃試験映像】
■2つのてき弾銃 ~ダイキン工業と日産自動車~
「幻のてき弾銃」にて、以下の開発経緯を示しました。
上図の様にてき弾銃の開発は昭和47年度より始まったとされております。しかしながら「ダイキン工業70年史」によると、てき弾銃の弾薬の開発を担当していたダイキン工業がてき弾銃の開発を辞退したのは昭和46年とされており、開発が始まる前に辞退していたことになります。このことから、このてき弾銃は「幻のてき弾銃」で取り上げた日産自動車(現・IHIエアロスペース)が弾薬開発に携わったてき弾銃(以降、日産型)の前に研究されていた、ダイキンが携わった試作品(以降、ダイキン型)と推測されます。
日産型てき弾銃【陸上自衛隊武器学校武器資料館にて撮影】
■ダイキン型てき弾銃とその開発・試験
ダイキン型は昭和44年度に第一次試作、昭和45年度に第二次試作が行われ、それぞれ2丁ずつ、計4丁の試作品が完成しています。
日産型と違う点として、対人用弾薬が40mmと小型であり、対戦車用は66mmと日産型と同一ですが銃身兼用コンテナに収容されており、銃身部ごと銃に挿入し撃つことを想定していたと推測されます。
昭和45年度から46年度にかけて、下北試験場、富士演習場などで実射試験が行われました。その試験結果及び要求について、図表化致しましたので御覧下さい。
以上のように、要求性能に対し試験結果は大幅に未達の状況です。
特に対戦車用弾薬の問題は深刻で、試験の途中で銃が破損し有効射程試験は未実施となってしまう有様です。また、精度試験の結果も酷いもので、射距離200mにおいて半数必中界(CEP)が方向上780cm、高低上400cmとなっております。この数字が意味することは、200m先の静止したT-55戦車(車体長6.45m、全高2.35m)を射撃したとしても、射撃数の半分の命中も期待出来ないということになります。これが走行時でしたら、命中することはまず不可能でしょう。
深刻な問題は更に続きます。銃が破損し対戦車用の有効射程は未実施となりましたが、その破損を招いた理由が深刻な故障率の高さに有ります。
対人用の故障率が60%を超えていますが、これは抽筒不良ですので連続射撃に問題が出る程度で問題としては重大ではありません(もっとも、60%はいくらなんでも高すぎですが)。問題は対戦車用で、30%の射撃が銃本体に破損を引き起こし、うち約7割(全体射撃数の約2割)が射手が負傷する可能性がある故障となります。これでは、制式化はまず無理でしょう。
「幻のてき弾銃」において、日産型が不採用となった理由は対戦車用弾薬が問題ではないかと推測いたしましたが、ダイキン型においては明白に対戦車用弾薬が深刻な問題になっていることが裏付けられました。
■そもそもの疑問
さて、何故こんな惨憺たる結果にも関わらず、開発は日産型へと引き継がれて同種の問題が発生した結果、再び不採用となったのでしょうか。この当時の陸上自衛隊の装備は朝鮮戦争時の米軍より少し進化した程度の物で、特に対戦車戦力はかなり貧弱な物でした。ソ連の優勢な戦車戦力に対し、国内で供給可能な対人・対戦車兼用の装備を必要としていた為と思われます。また、試験結果そのものは惨憺たるものでも、てき弾銃の最大の特徴である後方無爆風能力は非常に高く評価されており、壕内からの隠蔽射撃という隊員の生存性を向上させる運用に非常に期待が寄せられておりました。2001年になって制式かされた01式軽対戦車誘導弾が壕内からの射撃が可能であることを見ると、壕内からの射撃可能な対戦車火器のニーズが極めて高かったことも伺われます。
このような理由の他に、てき弾銃迷走の最大の原因となった開発フローの問題があると考えられます(詳細は「幻のてき弾銃」参照)。そして、あまりに実用からかけ離れた問題が発生したダイキン型こそが「幻のてき弾銃」でさむざむ。氏より指摘を受けた「基礎的研究の中で完成品に近い状態の試作」品だったのではないかと推測致します。
今後も本ブログでは、自衛隊における装備開発の失敗例として、プロジェクトに対する示唆に富むてき弾銃の調査を継続していきたいと思います。
<参考文献>
弾道学研究会 編「火器弾薬技術ハンドブック」防衛技術協会
ダイキン工業株式会社社史編集委員会「ダイキン工業70年史」ダイキン工業