2018年11月10日土曜日

「愚将」牟田口廉也中将の遊興逸話の真偽

歴史上の人物の評価というものは難しい。新たな史料の発見や再解釈、研究の進展によって、従来の見方が大きく変わることもある。かつて「革命児」「破壊者」と呼ばれた織田信長が、実は保守的な人物であったという近年の再評価は、その最たるものだろう。

星海社から7月に刊行された広中一成『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたか』(星海社新書)もそうした再評価の試みの一つかもしれない。盧溝橋事件で日中の戦端を開き、太平洋戦争で日本陸軍史上最悪の作戦とも言われたインパール作戦を主導した牟田口は、「愚将」といった評価がつきまとう人物だ。本書で著者の広中氏は、牟田口個人への攻撃に帰せられがちなインパール作戦について、牟田口個人の軍歴や日本陸軍の置かれた環境を辿り、牟田口個人でなく「愚将」を生んだ日本陸軍という組織の問題を、牟田口個人の評伝という形で明らかにしようとしている。

『牟田口廉也「愚将」はいかにして生み出されたのか』書影

本書は好評のようで、版元で増刷もされているという。刊行に合わせ、星海社で連動イベントも企画された。その一つが星海社が運営するサイト『ジセダイ』での広中氏による関連記事の掲載だった。その記事、「牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵」(以下、広中記事)では、インパール作戦時に牟田口が司令部首脳が料亭で遊興に浸っていたという広く知られた逸話を、一次史料で確認できないとして疑問を呈しており、こういった牟田口を辱めるエピソードの発端は、高木俊朗『憤死』等の記述によるものではないかとしている。

高木俊朗『憤死』

 この記事が公開された時、筆者も「失敗した作戦の指導者が、あらぬ事まで批判されるのはよくあることだしなあ」くらいの気持ちで、記事を紹介するジセダイ公式アカウントのツイートをリツイートした事を覚えている。ところが、この広中記事について、異論を唱える方がネット上で相次いだ。

その一つが、 ブログ『読書放浪記録』「広中一成氏の「牟田口廉也の宴会エピソード」否定論について」(以下、ブログ記事)だ。広中氏の主張に具体的な史料や証言を挙げて反論し、次のように結論付けている。

 以上の各記録、特に成田手記と齋藤証言を踏まえれば、インパール作戦前、そして作戦期間中に、第15軍の幹部たちが芸者とともに宴会に興じていたことは、事実と見るべきではないかと考えられる。厳密に言うならば、その幹部たちの中に「牟田口」本人が確実に含まれることを示す決定的な文献は、この一週間程度で調べた限りでは、残念ながら見つけることができなかった(彼一人が、他の幹部たちと異なり清潔だったとする根拠も見当たらないが)。しかし、少なくとも、第15軍幹部たちの乱脈ぶりは、牟田口の軍司令官としての統率の至らなさを示すものであり、その責任は司令官たる牟田口も負うべきものであろう。
 いずれにせよ、高木俊朗が「憤死」で紹介した「牟田口宴会逸話」を、「牟田口を貶めるためのエピソード」と位置づけることは、高木が無から有を創作したような誤解を与えかねない、不適当な表現ではないかと思われる。
このブログ記事に刺激を受け、筆者も本件に関して自分なりの調査を試みた。国会図書館に4回ほど通い、地元の図書館をまわり、国会図書館にも無い資料は地元図書館を通じて取り寄せた。また、遊郭の情報が必要と感じたため、吉原にある日本唯一の遊郭専門書店のカストリ書房に出向いて書籍を集め相談に乗って頂いた。ビルマ戦という資料が莫大に多い分野であり、およそ渉猟とはほど遠いものではあるが、ブログ記事に記載された以外にも第15軍やその上に位置したビルマ方面軍、そして牟田口個人について、多くの証言や史料があることを確認した。本記事ではそれらを検証した上で、果たしてインパール作戦中の軍高官の遊興は真実だったのかを考えていきたい。

なお、こういった検証については、検証者の中立性・第三者性が重要になってくるが、筆者はこの点を満たしていない点について、検証の前に明らかにしておく必要がある。『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたか』に編集者として関わった星海社の平林緑萌氏は、筆者の初単著『安全保障入門』(星海社新書)の刊行を世話して頂いた方で、筆者にとって大恩ある方であり、『牟田口廉也』も献本頂いている。また、広中氏とは直接の面識は無いものの、2013年に出された中国の傀儡政権について書かれた『ニセチャイナ―中国傀儡政権 満洲・蒙疆・冀東・臨時・維新・南京』(社会評論社)が大変面白かったので、ブログで紹介記事を過去に書いた事がある。このように筆者はこういった出版側と無関係ではなく、意識的無意識的にバイアスがかかる点を承知でお読み頂きたい。

また、筆者は歴史の専門家とは言い難い。『応仁の乱』『陰謀の日本中世史』といったベストセラーの著者である、中世史研究者の呉座勇一国際日本文化研究センター助教は、歴史学のプロとアマチュアを分けるのは史料批判が出来るか否かとしている。史料批判とは、史料の妥当性・信憑性を精査し評価することだ。筆者は史学科を出ておらず、史料批判の専門教育を受けていない素人に過ぎない。本記事で引用する史料(資料)も、自分なりに妥当性を検証した上ではあるが、的外れな史料批判に終始している可能性はある。そういった点に留意した上でお読みになって頂ければ幸いである。

まず、広中記事の主張をまとめてみよう。概ね次のように要約できるだろう。
  1. インパール作戦中、第15軍司令部で牟田口が連日宴会を開き、芸者を呼んで大騒ぎした逸話を裏付ける一次史料は見つけられなかった。
  2. この宴会逸話の初出は高木俊朗の著作で、牟田口を辱めるエピソードではないか。
  3. 河邊らビルマ方面軍幕僚も日夜宴会をしたというが、それも一次史料から見つからず断定できない。
  4. インパール作戦をめぐる逸話はいくつも存在するが、牟田口だけに批判が集中している。
  5. 牟田口に批判が集中したのは、連合軍による宣伝ビラのせいではないか。

1.牟田口は作戦中も連日宴会を開いていたか?

1については、筆者も牟田口がインパール作戦中も宴会で芸者を呼んで大騒ぎしたという一次史料を見つけることが出来なかった。第15軍司令部の将校が、インパール作戦中やそれ以外でも頻繁に料亭を利用していたことは、一次史料からでも伺う事ができた。それが火野葦平の従軍手帖だ。

火野葦平(『土と兵隊』より(国会図書館デジタルコレクションより)著作権消失済)

火野葦平は日中戦争の頃から著名な戦記作家であり、インパール作戦にも従軍して記事を残している。火野は従軍作家であり、戦時の報道統制下の記事には、検閲を経ていて軍に不都合なことはまず載らない。しかし、火野の死後に発見された20冊の手帖の中には、インパール作戦従軍中に記した6冊の手帖があった。これは検閲を経ていない当時の生の記録であり、一次史料に準じるものとして扱える。長らく閲覧が難しい状態にあったが、2017年にインパール作戦の部分の翻刻版が集英社から『インパール作戦従軍記』として出版されている。

それによれば、1944年5月8日に火野は第15軍司令部のあるメイミョウ(現ピン・ウー・ルウィン)を訪れている。メイミョウはビルマ(現ミャンマー)の冷涼な避暑地として知られ、英国のビルマ総督府高官の別荘が並び、「ビルマの軽井沢」「ビルマの箱根」などと形容された風光明媚な場所で、戦時中にここを訪れた日本軍人の多くがその美しさについて書き残している。そして翌9日に次の記述を残している。

 日が暮れてから、清明荘といふ料亭に行く。日本女たち。いろいろな酒。

火野葦平『インパール作戦従軍記 葦平「従軍手帖」全文翻刻』
翌10日にも次の記述がある。

 夜、田中参謀に招ばれる。また、清明荘である。同盟〈通信〉の斎藤□彦君。橋本参謀もあとから合流する。橋本中佐の芸におどろく。

火野葦平『インパール作戦従軍記 葦平「従軍手帖」全文翻刻』

9日の記述からは、料亭「清明荘」では、酒に日本人女性(芸者)を伴うサービスがあったと伺える。10日の記述に登場する橋本参謀は、牟田口の個人的お気に入りだった橋本洋中佐でほぼ間違いないだろう。牟田口は天長節(昭和天皇の誕生日)までにインパールを攻略するつもりだったが、この頃になってもそれは叶っていない。この頃には第33師団の柳田師団長は補給に限界が来たとして牟田口にインパール作戦の中止を求め、第15師団の山内師団長はマラリアを発症して指揮が取れなくなるなど、前線は窮状の中にあった。

現在のメイミョウ。写真中央は当時もあった時計塔(Hybernator撮影)
もっとも、この記述ではインパール作戦の最中ではあるものの、牟田口は登場しない。この頃、牟田口はより前線に近い戦闘司令所で指揮を執っており、メイミョウにはいなかった。しかし、第15軍首脳が料亭に出入りしていた事は裏付けられる(頻度は定かではないが)。

ここで名前が出た清明荘。どんな料亭だったのだろうか? 現代の我々が抱く料亭イメージは、高級な会席料理を出す店というものが大半だろう。しかし、戦前・戦中はそれだけの意味にとどまらなかった。当時は芸者による性的なサービスが伴うことがまま見られていた。陸軍の軍医だった興野義一は著書の中で、このように清明荘を説明している。

 高級将校のためには軍司令部お抱えの料亭清明荘があり、内地から芸者が沢山きていた。もちろん我々見習士官などのゆける所でなく、各隊の隊長クラスがかち合わないようにスケジュール を決めて遊びにいっていた。うちの病院でも上級者数名が馴染みをつくっていた。曜日が変れば 他隊の何某の女になるわけで、これを称して○○兄弟という。

また、第15軍司令部の将校だった中井悟四郎は、ラングーン(現ヤンゴン)にあった料亭翠香園の説明の中で、次のように書いている。

 夕刻、嘉悦参謀から迎えの車が来て、翠香園に案内された。此所は明妙の正明荘と同じく、わざわざ内地から呼び寄せられた日本人娼婦達がいて、軍司令部の高級将校用のパンパン宿である。

中井悟四郎『歩兵第六十七連隊文集. 純血の雄叫び』
上記の記述からは、清明荘が司令部の高級将校用慰安所として機能していたことが伺える。これら証言の正当性に関してだが、特に中井の記述は注目する点がある。『歩兵第六十七連隊文集』は、インパール戦に参加した第六十七連隊従軍者によって戦後まとめられた文集だが、『純血の雄叫び』は中井1人が書いた長大な回想になっている。これに序文を寄せているのが、当時陸上自衛隊の陸将補だった藤原岩市だ。藤原岩市は15軍で情報参謀を務めていた人物だ。つまり、15軍の高級将校だった藤原自身がこの記述を認めているとみていい。

藤原はかなり食えない人物だ。戦後にGHQの戦史関連の部署に携わったことで、インパール作戦の失敗について第15軍司令部に都合の良い情報を国際的に流布し、戦後のインパール作戦の評価に大きな(そして悪い)影響を残した。第15軍勤務時の中井は藤原の部下で藤原を尊敬していたとされ、藤原を批判する目的で記述することはないし、そうだったら藤原は序文を寄せはしないだろう。しかし、清明荘が藤原を含む第15軍高級将校の慰安所であったことは普通に書かれている。今でこそ慰安婦・慰安所はセンシティブな問題だが、昭和の頃は割とあっけらかんに語られており、藤原に不利な証言になるとは思っていなかったのだろう。実際、中曽根康弘元首相も、戦時中に主計中尉として慰安所を設置したことを誇らしく回想録に書いていた。こういったことから、清明荘の部分の記述は信頼できるものと思われる。

だが、清明荘が「第15軍の高級将校用」という証言は得たが、「牟田口」が毎晩通ったと名指しした証言は見つからなかった。しかし、「第15軍の高級将校」とは言うが、司令官である牟田口だけその中に入らないというのも不自然な話だと考える。

2.宴会逸話は高木俊朗の著作が初出か?

広中氏は、インパール作戦中に牟田口が毎晩遊興に浸っていたとする話の初出を高木俊朗の著作によるものだと見ている。ただ、この広中氏の見立ては、かなり強引なものを感じる。次はブログ記事でも指摘されているが、重要なポイントでもあるため、こちらでも記述する。

高木俊朗は陸軍報道班員として従軍取材を行い、インパール作戦にも従軍している。戦後、様々な証言を集めたルポルタージュとして『インパール』を発表。高木のインパール作戦を扱った5冊はインパール五部作と呼ばれている。そして、広中記事では高木の記述を次のように引用し、評価している。

 「牟田口軍司令官は豪壮な洋館を官邸にしていた。その庭に小道があり、衛兵が二十四時間、立哨していた。その小道をくだると、晴明荘という料亭に通じていた。牟田口軍司令官は夜ごと、ゆかたを着て晴明荘にかよった。酒と女に対する欲望に飽きることのない人であった(引用者中略)一風呂浴びると夜は宴会、高級車で料亭へ横づけだ。ここの料亭も御多分にもれず大阪付近の遊郭からはるばるやって来た慰安婦たちの一行である」(『憤死』261〜262ページ)。

高木のインパール五部作は、いずれも牟田口に対する評価が厳しい。その厳しさは、ときには感情的とも受け取れる。この牟田口の宴会での様子は、彼の愚かさを表すにはもってこいのエピソードである。しかし、この記述は出典が不明確で、当時の牟田口がつけていた日記などもないため、史料的裏づけがとれない。よって、実証を旨とする拙著では、これを取り上げなかった。


上記では、高木の著作の記述を「出典が不明確」としている。しかし、「(引用者中略)」で略された部分の冒頭を見てみよう。

 清明荘について、報道班員としてきていた、朝日新聞社の成田利一記者は、次のように書いた。(引用者後略)

高木俊朗『憤死』

なんと出典が書いている部分が略されていた。この部分を略して「出典が不明確」とするのは、些か不誠実な態度ではないか。もっとも、高木の記述も成田記者の記述とはしているが、しっかりと出典を書いているわけではない。しかし、この記述自体は確かに存在する。この成田記者の記述は『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』に収録された「運命の会戦」であることをブログ記事は指摘している。筆者も確認したが、牟田口や第15軍首脳の遊興具合について、高木の記述は概ねここからの引用であると思われた。

『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』は1954年の出版であり、高木が牟田口らの遊興について書くよりずっと前である。この事から、広中氏の主張する高木が牟田口を辱める話を創作したという説は成り立たないだろう。また、この他にも高木より前に第15軍、ビルマ方面軍の遊興に触れた記述はないか確認した所、以下のような記述があった。

 灯よもしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹蔭から粋な音じめがもれて来るという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬の単衣かなにかをお召しになった久留米芸妓のお座付からはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日毎夜毎の盛宴に明け暮れていた。
 S奴姐さんはX参謀、M丸さんはY隊という具合で、僕ら軍属や、民間人はとても姐さん方に拝謁を得るのは難事中の難事だった。

若林正夫「ラングーンに傲るもの」『秘録大東亜戦史』

先の成田記者の記述と同じく、出典は『秘録大東亜戦史』からで、今度は読売新聞の若林記者によるラングーンの翠香園に関する記述だ。朝日新聞に続いて、読売新聞の記者までビルマ方面軍の料亭話を書いている。このメディア関係者による記述を裏付ける、軍人側の記述が残っている。先に登場した中井が、情報将校としてメディア関係者の歓迎会に出席した時の話だ。

3.ビルマ方面軍幕僚も日夜宴会をしたのか?

 長谷川君(引用者注:報道班の読売班班長)の肝入りで、各社合同の歓迎会が翠香園に準備されて居るとかで、夕刻の道を各社の「オープンカー」が列って北郊の翠香園に向った。翠香園は元明妙にあったものを、方面軍に取上げられた将校慰安所でその女共は夫々に高級将校が丹那になって居たので見識が高く、大尉以下の者や、軍属には手も届かぬ高嶺の花であった。博多や久留米辺りの芸妓出身の者が多く、九洲訛りを丸出しにして居た。年増女も居たが、大抵はうら若い女性で占められて居て、和服姿が懐しかった。大広間で酒宴が初められたが、時の経つに従って女共は一人消二人消えして、果ては年増の「ブスケ」が二人ばかり残っただけである。「ダンナ」の御帰館と共に夫々の女が自室に引揚げて行ったのでろう。此んな事では報道関係者や現地軍の人々に、方面軍の風紀紊乱を云々されても致し方ないであろう。

中井悟四郎『歩兵第六十七連隊文集. 純血の雄叫び』


この記述はインパール作戦が失敗に終わり、ビルマではイラワジ会戦が生起していた頃と思われる。前線で死闘が演じられている中、ラングーンの方面軍司令部の高級将校は、仕事が終わると翠香園の芸妓の元に「帰って」いた事が判る。芸妓のことを高級将校の「現地妻」と形容した兵の回想があるが、まさに的を得た表現だろう。この頃、河邊は方面軍司令官を離れているが、このような習慣がいきなり後任の木村兵太郎中将の時に始まったとも考えにくい。

ラングーン(現ヤンゴン)に入城する日本軍(写真週報214号,アジア歴史資料センターより)
ビルマ方面軍の風紀紊乱具合については、様々な記述が存在する。『牟田口廉也』でも参考文献として引用されている後勝『ビルマ戦記』にも、毎晩賑わう翠香園の話が載っている。この事はブログ記事でも指摘されているが、重要な記述なのでこちらでも引用する。

 また偕行社とは別に、九州の熊本から来たという粋香園という料亭があった。
 ビルマのように厳しい戦局下で、こんな荷物はない方がよいと思ったが、方面軍ではどうしたことか、作戦課長直轄の聖域であった。その門前にはいつも数十台の車が並び、苛烈な戦局をよそに繁昌をきわめ、前線将兵の怨嗟の的でもあった。

後勝『ビルマ戦記』

後勝(うしろまさる)は、ビルマ方面軍の参謀だった人物だ。広中氏が主張するように、前線の宣伝ビラで惑わされるとは考えにくい。毎晩繁盛していたという記述があるが、広中氏は著書に参考文献に挙げている以上読まれているはずなのに、なぜかこれを証言として取り上げていないのは不可解だ。しかもこの話には続きがある。1945年5月25日に前線からビルマ方面軍司令部のあるモールメン(この頃にはラングーンは放棄されていた)に戻った後は、ラングーンを出発する際にモールメンに軍需品を船で輸送するように手配していたが、軍需品はラングーンに放置されたと聞き愕然とする。その理由はこうだった。

 その理由を聞いたところ、緊急軍需品を港に集め、いよいよ舟に積み込もうとしたとき、作戦課長命で舟を全部取り揚げられ、軍需品は放置したまま、方面軍司令部はモールメンへ撤退することになったというのである。
 それでは、後方で集めた舟は何に使ったかと聞けば、作戦課長直轄の特殊部隊を乗せて撤退したという返事で、私がカレニン山系の山越えのとき、恥ずかしい思いで聞いた風聞の通りであった。
後勝『ビルマ戦記』

これだけ読んでも意味が分かりにくいかもしれない。「作戦課長直轄の特殊部隊」とはなにか? と言うのも、後は意図的に直接の表現を避けているからだ。上記で引用した『ビルマ戦記』は、2010年の新装版で広中氏もこれを参考文献にしている。ところが、『ビルマ戦記』の初版は1953年の出版で、新装版とは大きく構成や内容が異なっており、曖昧な表現の部分がズバリと書いてある。初版ではこのように書かれている。

 幾千の邦人は急に小銃を持たされてラングーンに残留され、また六百屯の緊急軍需品は一物も運び出すことなく、準備した舟艇には、偕行社に働いていた数十名の女子軍属、翠香園その他にいた百名近い慰安婦、偕行社の雑品等を乗せて、モールメンに遁走してしまつたではないか。

後勝『ビルマ戦記』(初版)

医薬品等600トンの物資を置いて、翠香園の慰安婦を含めて婦女子を輸送したのだという。もちろん、婦女子を優先して安全な場所に逃がすという行為は批難されるべきものではないと言えるかもしれない。しかし、後はビルマ方面軍時代に、翠香園の慰安婦への司令部高官の寵愛っぷりを見ており、そうとは思えなかったのかもしれない。

 またある日、ある部隊の連中が、真昼間から大胆にも数人の芸妓を乗せてドライヴしている時、敵機の一斉機銃掃射を浴びせられて死んだことを思い出しながら宿舎へ戻ると、その途端にとんだ電話がかかってきた。
 「おい、翠香園に爆弾が落ちて、防空壕に退避していた芸妓四名が生埋めになつた。すぐ軍医を寄越してくれ」
 これまで第一線でどれだけ多くの将兵が戦死しても、敵軍の爆発で軍需品倉庫が焼けても、そこへ駆けつけた者は、かつての片倉参謀を除き、誰一人いなかつたではないか。それにも拘わらず料理屋が爆撃されると、真先に駆つける者がいるというのは全く矛盾した話で、恐らく電話の主も一緒に防空壕にいたのかもしれない。もしそれが事実であれば、その被害も天罰に等しいし、天網恢恢にして漏らさなかつように感じて腹の虫が収まらなかった。ところが暫くするとまた電話がかかつて来て、
 「君は何を、ぐずぐずしているか」
 と、図々しい挨拶であつた。しかし女達は家計を助けるため、こんな遠い所へ身売した不幸な人達だ、と胸を押えて、広島軍医少佐を連絡に派遣したが、同少佐が翠香園へ到着する迄に、三名のものが、交互に電話で煩さく催促して来た。なんという親切者揃いであろう。

後勝『ビルマ戦記』(初版)

この後の記述について、同じくビルマ方面軍でラングーンの高射砲部隊にいた小宮徳次少尉は、次のように推察している。

 筆者(引用者注:後勝のこと)はビルマ所在部隊では、鬼も恐れる最高権力を持った方面軍司令部の少佐参謀である。吉田少将でも、高級参謀の片倉大佐には一目置いていた程である。そうした権威を持つはずの参謀が「おい」と呼ばれ「君」といわれて頭ごなしに指示されているところをみると、この時電話をかけて来た人物は、筆者はわざと名を秘している様子だが、少なくとも参謀に命令し得る立場の「権力者」に違いない。
 推察するに、この爆撃時の萃香園には軍司令部の高官が少なくとも三人は遊んでいたと想像される。公式の宴会ならば出席したことがあるだろう筆者が、このように憤懣をぶちまけているところから考えると、いかに遊興が度をこしていたかを想像し得るのである。
 軍司令部幕僚以上はもちろん、その他高級幹部は、第一線将兵の死闘にもかかわらず軍紀が退廃し、風紀は極度に紊乱して、一般将兵および内地民間人では到底想像し得ぬほどの乱脈ぶりを極めていたのである。

小宮徳次『ビルマ戦 : 戦争と人間の記録』

後はぼかして書いているが、小宮の推測では方面軍の相当高位の人間が翠香園に入り浸って遊興に浸っていたという。また、小宮は自身がラングーンで実際に経験した、見聞きした方面軍の醜聞を多数書き残している。あまりに多すぎて全てをここに書くことは出来ないが、芸者を巡って将校同士が公衆の面前で刀や拳銃を持ち出すなど、その醜聞の中心には翠香園がある場合がほとんどであった。小宮はラングーンの翠香園について、次のように糾弾している。

 こと此処に至っては、翠香園の功罪も既に極まったと言わざるを得ない。
我々の知る限りでも、今迄折りに触れて記述した通り数多くの問題があったが、恐らくそれは氷山の一角に過ぎず、未だ未だ一般に知られていない悪が、伏魔殿の此の翠香園には潜んで居たに相違ない。而しそれが世に知られないのは、ビルマ方面軍という最高指揮官のお膝元のことであった故に、暴露する者が居なかった為であろう。それにしてもこうして伏魔殿を中心とした数多くの事件が見聞きされた処をみると、如何に其の害毒がこの可愛い日本女性達を中心に流されたことか。

小宮徳次『還らざる戦友 : 蘭貢高射砲隊司令部(森12200部隊)顛末記』

4.インパール作戦をめぐる逸話はいくつも存在するが、牟田口だけに批判が集中しているか?

これに関しては、牟田口に批判が多く集まっている向きは否定できない。しかし、広中氏が批判している当の高木は、清明荘の第15軍に加え、ビルマ方面軍の翠香園についての批判も行い、ビルマ方面軍全体の問題として提起している。また、高木のインパール5部作の終盤に次のように書かれている。

 この作戦を思いつき、無理押しに実行させたのは、牟田口廉也中将の個人的な功名野心のためである。
 その野望に大義の口実を与えたのは、第十五軍の情報参謀・藤原岩市中佐で、チャンドラ・ボースの熱弁に陶酔して、インド独立の夢を描いた。
 ビルマ方面軍司令官の河辺正三中将は優柔不断に終始し、惨敗のさなかに、ひとり般若心経を称えるばかりだった。(引用者後略)

高木俊朗『憤死』

この後、南方軍司令官の寺内寿一元帥、首相で陸軍参謀総長の東条英機大将、インパール作戦の具体化を行った第15軍の木下秀明大佐と続いて批判しており、高木は牟田口個人の責に負わせてはいない。戦後、あまり表に出ることの無かった河邊と比べ、牟田口は自分は間違っていなかったとマスコミ行脚を繰り返す等の露出が多かったことで、逆に注目された可能性があるのではなかろうか。その結果、かなり多いビルマ方面軍の醜聞が、牟田口個人のものと混同されてしまったのではないだろうか。

また本記事でも注意を要することであるが、インパール作戦の失敗後、牟田口と河邊は、それぞれ第15軍司令官、ビルマ方面軍司令官の職を解かれている。証言の中には、彼らが在任時のものもあれば、詳しい日時が不明なものもあり、すぐに牟田口・河邊に結びつけるのは早計である。


5.牟田口に批判が集中したのは、連合軍による宣伝ビラのせいか?
この広中氏の仮説であるが、これも疑わしいと考えられる。というのも、これまで挙げてきた証言からも判るように、牟田口、第15軍、ビルマ方面軍の醜聞を批判する記述の結構な数が、参謀や軍医といった、前線ではなく後方にいる階級の高い人物なのだ。むしろ、前線の兵クラスの回想で、具体的な高官の醜聞エピソードがある話は見つけられなかった。

また、先に引用した後『ビルマ戦記』では、「私がカレニン山系の山越えのとき、恥ずかしい思いで聞いた風聞」という一文がある。これは、後が前線から山越えをして司令部に戻る時、兵士達との雑談の中で出た次のようなものだ。

 方面軍司令部の幹部は、在留邦人やバーモ長官、チャンドラ・ボースなど、みなラングーンに置きざりにして、逸早くモールメンへ逃げたそうだ。それでもお抱えの娘子軍だけは連れて逃げたということだ。それで司令官は大将になったそうだ、といってどっと笑い声に変わるのである。

後勝『ビルマ戦記』

この風聞はほぼ正しい。後がこの話を兵士から聞いたのは、恐らく5月中旬のことだ。4月23日にビルマ方面軍司令官の木村兵太郎中将は飛行機でラングーンからモールメンに逃れたが、これは南方軍に無断の行動であった。方面軍首脳が飛行機で逃げ出した後、日本の傀儡政権であったビルマ国のバーモ首相と、自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースは陸路で逃れているが、ビルマ方面軍は約束した車を用意せず、ビルマ国のバーモ首相以外の大臣は徒歩での脱出を余儀なくされている。ラングーン脱出で醜態を晒した木村だが、5月5日付けで大将に昇進した。まさに風聞の通りだった。

方面軍参謀だった後すら把握していない情報を、前線の兵士達はなぜ知っていたのだろうか。これは、英軍の諜報網が日本軍の動静をかなり把握しており、醜聞の部分をそのまま宣伝放送に流していた可能性があるのではないか。これを裏付けるものとしては、小宮はラングーンの翠香園がスパイの注視の的であったことを記している。また、高木の『抗命』では、英軍戦車の放送で第31師団の佐藤師団長が方面軍司令部の乱行ぶりを知ったという記述がある。他にも、ビルマ方面軍作戦主任参謀だった安倍光男少佐は、秘匿しているはずのこちらの部隊名を言い当て、日本軍の他の部隊の状況を放送してくる英軍戦車に遭遇している(安倍『参謀』(富士書房))。

広中記事への反論を行ったブログ記事では、他の戦場で連合軍の宣伝ビラが目立った効果を与えていないのに対し、ビルマ方面だけ顕著な成功を収めているのは、それを信じる素地が元々あったからではないかと推測している。筆者はさらに言えば、英軍がデマを考える必要がないほど、ビルマ方面軍の津々浦々に醜聞が転がっていた可能性もあるのではないかと思う。

もちろん、これを裏付ける確たる英軍側の証拠はないので、仮説の域を出るものではない。しかし、牟田口個人に留まらず、ビルマ方面軍全体への中傷ビラ(事実も多いが)が撒かれていたにも拘わらず、なぜ牟田口が兵士達からの怨嗟の対象になったかは、連合軍のビラが一因とするのは弱いのではないか。


史料に残したくない話

今回集めた史料や記述の中で、同時代に作成された一次史料と言えるものが火野の取材手帖しかなく、そもそも一次史料はあまり残されていないと思われるが、それにはそれなりの理由があると考えている。ラングーンの翠香園について、中井は次のように書いている。

高級将校の此等遊興費は、機密費なる魔物で支弁されて居たようである。

中井悟四郎『歩兵第六十七連隊文集. 純血の雄叫び』

また、後は戦後に聞いた話として、次のように残している。

 戦後ある会合で、「戦時中に私は、部付将校を連れて偕行社に行き、月に一度か二度すき焼きを食べたら、月給は空っぽに使い果たしたのに、値段の高い翠香園が、連日繁昌していたのは理解できなかった」と言ったところ、「ガソリンやその他の軍需品を、少し横流しすれば悠々と一ヶ月遊べたのに、方面軍の後方主任がそんなことを知らないようでは、戦さに負けるのも無理はない」と笑われて、まったく二の句がつげなかった。

後勝『ビルマ戦記』
つまり、高級将校の料亭通いの原資は、機密費や横領による資金であり、表沙汰にしたくない、記録に残したくないものだったということになる。一次史料に残りにくい類の情報なのだ。

しかし、ここまでの記述は、料亭を利用していない側の、一方的な記述といえるかもしれない。しかし、料亭を利用していた側の弁明も残っている。

 兵棋演習は夕方暗くなるまでかかった。が、終わると、わたしと香川は自動車で、ヴィクトリア湖畔の「翠香園」へ繰り出していった。マンダレー街道から奥の門あたりまで自動車がつめかけていた。(引用者中略)
 考えてみると前線では、イラワジ河は危急にひんし、アキャブはすでに失陥し、フーコン谷地ではスチルウェルがブルドーザーで、援蒋ルートのコンクリートのレド公路を、どんどんつくりながら進みつつあり、ミートキーナでは水上源蔵少将が玉砕し、そしてシャン高原の怒江戦線で衛立煌の十四個師が、わずか一個師団の竜兵団に対し「十三対一」の優勢な兵力で三方から攻めたてている。
 そこで奮戦している辻政信参謀が腹をたてて、ラングーンの腐敗を痛罵しているらしいが、この自動車の列を見たら、彼なら怒って火をつけるだろうと思われた。だが、ここでそんなことを考えてみてもつまらない。わたし自身もきっと辻からぶん殴られるだろうと思うと、苦笑を禁じ得なかった。

この記述は、ビルマ方面軍麾下の第33軍の第49師団の作戦主任参謀だった菊地重規によるものだ。インパール作戦より後の話だが、さらに状況が悪化しているにも拘わらず、料亭は盛況だったことがわかる。菊地のこの証言は、ビルマ方面軍の高級将校が料亭を頻繁に利用していたことを認めているものだ。

また、ここで辻政信の名前が出ている。辻は牟田口と並んで悪名で知られる陸軍軍人だが、個人としては料亭や芸者遊びを嫌う硬派で、中国では日本軍が遊興に浸っていた「料理屋」に火を点けたことでも知られており、菊地の「彼なら怒って火をつける」という記述は比喩ではなく文字通りの意味だった。辻は著書『十五対一』でも、メイミョウやラングーンの料亭や慰安所での遊興に不快感を示している。これについては当時から辻は批判を公言していたために、彼の言動については複数の証言が残っており、この部分の辻の記述の信憑性は高いと思われる。

看過できない証言

さて、ここまでで牟田口がインパール作戦中も遊興に浸っていた、という一次史料を確認できなかったことは前にも述べた。しかし、いくつか気になる伝聞が伝わっている。

 噂といえば、牟田口軍司令官がさわやかな冷気のメイミョウに軍司令部を置いたまま、インパール作戦開始後もその戦闘司令所を前線に移さないことに関して「麗人との別離がつらいのだろう」との風評がささやかれてた。この麗人とは、メイミョウの豪壮な邸宅内に囲われていた一人の女性を意味していた。彼女はメイミョウに設けられた高級将校専用の慰安所「清明荘」にいた前線慰安婦の一人で、彼女は広大な軍司令官官舎の奥深く居住をともにしていた。

『悲運の京都兵団証言録 防人の詩 インパール編』(京都新聞社)

この記述については、ブログ記事でも言及がなされているが、出典や証言者が不明であり、巻末の参考文献一覧も膨大で出典を特定できなかったという。筆者も出典の特定を試みたが、参考文献の中には国会図書館に収蔵されていないものもあり、結局噂の出典特定はできなかった。

しかし、「麗人」と思われる牟田口寵愛の慰安婦の存在について、噂ではない当事者の証言を見つけることが出来た。メイミョウにあった第百二十一兵站病院に勤務していた兵による証言である。

 …たまたま昭和十九年春頃インパール作戦が始まり第一線では食料も弾丸もなく日夜死の戦いでいる時、明妙(引用者注:メイミョウの漢字表記)の軍は清明荘の遊女にひたっている高官が私達の目に入っていた。
 その清明荘には治療部の目先にあり、大阪から来た飛田遊廓の経営で、司令部専用の料亭。大阪より家財全部軍用列車で持ち込んでの商売、女は大阪の一流の女性、金と物は内地以上の待遇、その中に閣下専用の女も内地より特別輸入した。その彼女当時二十一歳、八頭身形で清明荘一の美人、たまたま軍医部の大川大尉の診断で子宮外妊娠三か月で健康を害し、手術の必要となり、治療部は室谷大尉の術者、佐藤軍曹の助手、準備は◯◯上等兵と私、来院した彼女、閣下の専用でありなかなか強気であり、診断にも手術にもならずこまったあげく軍医の命令通り、全身麻酔をかけて眠らせて簡単な掻爬で実施すると話されて実施されたが掻爬は思うようにいかず次回に手術すると中止された。
 ところが麻酔よりさめた彼女に元どおり着物を着るように話すると、前をあけて陰部の毛をきれいに剃ってあるので、誰がなぜこのようにしたとどやされ、その頃手術室は軍医下士官も誰もいなくなり、事実剃ったのは◯◯上等兵と私であり、しかし診療上陰部の毛を剃るのは軍命である。本人にすれば閣下以外の者に見られ、大事な毛もなくなり、治りもせず、再手術せねばならず、後の始末なんとすると怒るのもあたりまえ、これが兵隊のつらさであるが閣下はなんと考えていることか、彼女なんというか、心配であったが、軍医部の大川大尉の報告で閣下のお話もあり、再度手術となった。その時は帝王切開の用意をして無事おわり。経過も良好で順調に全快した。

大谷義明「ビルマ派遣従軍の想い出 」『ビルマ戦陣回顧録』所収

筆者が知る限り、牟田口と関係があった女性についての、唯一の一次的な証言である。この『ビルマ戦陣回顧録』は、メイミョウにあった第百二十一兵站病院の勤務者の戦友会である、北カ会メンバーがビルマ勤務時を回顧した文集だ。中井は高級将校にそれぞれついている女性について、下級将校に対する態度が横柄であったと回想しているが、上記証言もそれに合致している。

しかし、この証言は、医学的な面で不可解な点が多い。子宮外妊娠の治療として、考えにくい手術を行っているためだ。子宮外妊娠は多くの場合卵管で発生するため、掻爬による治療は期待できない。また、子宮外妊娠なのに、子宮を切開する帝王切開を行うとは考えられない。筆者は医療関係者2名と相談し、考えられるシチュエーションを検討したところ、概ね次の解釈で一致を見た。

  • 当時は超音波検査が無いため、最初の診断で正常な妊娠との判別がつかなかった可能性
  • 堕胎しようと掻爬を行おうとしたが、子宮内に胎児がいないため子宮外妊娠と判明
  • 腹部切開(帝王切開ではない)により、子宮外妊娠を治療した

記述を読めば判る通り、この記述をした大谷は医師や看護師ではなく、手術の準備をした兵という立場にある。医学知識はそれほど十分でなかった可能性があり、また戦後20年を経て記憶が曖昧になり、医学的に怪しい記述になってしまったと思われる。ただ、合理的に誤りを説明できる記述ではあった。

では、この証言そのものの信憑性も怪しいだろうか? この証言に出てくる「閣下(引用者注:もちろん牟田口のこと)専用の女」を診断した軍医部の大川大尉、手術を執刀した室屋大尉と思しき人物は、この『ビルマ戦陣回顧録』に自身の回顧を寄せていて、当時は存命であった。言及した人物の目に確実に触れる文集に虚偽を書くとも考えにくく、一定の信憑性も有していると見られる。

しかし、先の記述の後、看過できない記述があった。

牟田口がインパール作戦開始後、1ヶ月以上もメイミョウに留まっていた事については批判が多い。メイミョウは前線から直線で300km離れており、これは東京から滋賀県の作戦を指揮するに等しい。このような距離に起因する事情から、現地の実態を正確に把握していなかったと、防衛庁防衛研究所戦史部第1戦史研究室(当時)だった荒川憲一主任研究官は牟田口の作戦指導を批判している。

メイミョウに留まっていた理由については、第15軍管内に侵入していた敵空挺部隊への対応のためと言われている。が、先に引用したように「麗人との別離がつらい」といった噂や、料亭等が整ったメイミョウから離れたくなかったのではないかという勘ぐりが、様々な書籍で見られたが、牟田口の内心を見ることはできないので、推測の域を出ない。しかし、次の証言が事実なら、牟田口の内心を察する事ができるかもしれない。
 治療中、閣下の当番より再三の差入れが私達兵隊にもあり、また全快後彼女自身も治療部に来院し、私達の存在も認められ、第百二十一兵站病院もビルマ一と講評されてインパール作戦の前線視察に行ったのもその頃であったと思う。

大谷義明「ビルマ派遣従軍の想い出 」『ビルマ戦陣回顧録』所収
上記証言によれば、牟田口は女性が全快したのを見届けてから、メイミョウを出たと取れる。下手をすれば、噂や勘ぐりを補強しかねない証言である。

勘ぐりの部分は置いておくにしても、この証言が事実ならば、牟田口も料亭の芸者を囲っていたのは事実ということになる。ビルマ方面軍全体の醜聞を見れば、牟田口だけ清廉潔白というのもおかしな話で、この証言は無視できないものと思われる。

本の意義

話を最初に戻そう。広中氏の『牟田口廉也』の、これまでインパール作戦等の責任を負わされてきた牟田口個人ではなく、「愚将」を生んだ日本陸軍という組織の問題を明らかにするという問題意識は、筆者も支持するものだし、『牟田口廉也』はその目的をある程度達することができていると思う。しかし、その販促活動として広中氏が展開されていた記事やイベント等で見せた態度は、牟田口の数々の逸話の責任を高木俊朗という個人に押し付けるという、広中氏が批判してきた個人への責任転嫁と同じ徹を踏んでいるように思えてならない。

また、筆者はここまで、第15軍やビルマ方面軍全般の醜聞についての証言を提示してきたが、はっきり言えばこれら醜聞自体はそれほど重要なものではない。極論を言えば、料亭で遊興に浸っていようが、大敗を喫することなく、数万の兵を無事に祖国に帰すことができる司令部ならば、そちらの方が遥かに良い。問題は、一つの戦線を崩壊させ、多大な死者を出したビルマ方面軍が、その方面軍全体で腐敗がまかり通っていたという点だ。

結論を言えば、牟田口個人だけでなく、牟田口の第15軍を含めたビルマ方面軍の高級将校全体に、腐敗が蔓延していたということになる。インパール作戦と同じく、牟田口個人が代表的な人物かのように言われることが多かったが、ビルマ方面軍、そして日本陸軍という組織自体の問題だったのだ。その意味で、広中氏の問題意識と通底するものがあると思う。

繰り返すが、筆者は新書『牟田口廉也』における、広中氏の姿勢を支持している。しかし、著書から外れた部分で外してしまった感は否めない。広中氏を含め、今後の牟田口廉也や日本軍の問題について、研究のより一層の進展を願いたい。

2018年3月15日木曜日

「肉じゃが発祥の地」を巡る真相

Yahoo!ニュースのトピックスに、ABC朝日放送のこんな記事が掲載されていました。

【ABC特集】舞鶴か?呉か?  海軍ゆかりの町の仁義なき「肉じゃが論争」ついに決着か]

記事そのものは肉じゃがの発祥の地を巡って、海軍ゆかりの町である舞鶴と呉の間で争われているという話で、「ついに決着か」とタイトルにありますが、結局は分からずに終わっています。そして記事中、肉じゃがの誕生についてこのように説明されています。

 明治34年(1901年)、海軍鎮守府の長官として、舞鶴に赴任した東郷平八郎は、イギリス留学中に食べたビーフシチューを作るよう料理長に命令。しかし、当時は赤ワインやバターなど手に入らない調味料もあったため、料理長は、しょうゆと砂糖、ごま油を使って味付け。そうして出来上がったのが「肉じゃが」、というのが舞鶴では定説なんだそうです。


日本海軍の東郷平八郎がその誕生に関わったという、肉じゃが誕生の「定説」については、ご存知の方も多いと思います。トピックスにも掲載されたので、多くの方がご覧になったでしょう。しかし、この「定説」について、実際はどうなのでしょうか?

『海軍さんの料理帖』(ホビージャパン)の著者である海軍史研究家の有馬桓次郎氏によれば、シチュー自体は明治初期には既に日本に入ってきており、明治22年に日本海軍が制定した「五等厨夫教育規則」にはシチューの作り方が記載されているそうです。また、赤ワインベースのシチューは当時のヨーロッパでも一般的ではなく、赤ワインを入れるようになったのは近年のことだとか。このことから、「シチューを赤ワインとバターの代わりに、しょうゆと砂糖で味付けしたのが肉じゃが」という肉じゃが発祥説は、「9割がた誤り」としています。

では、なぜ肉じゃが誕生の経緯や発祥の地についての伝説がまことしやかに拡がっているのでしょうか? このことについては、記事中にも登場する海軍料理研究家の高森尚史氏は、自身の著書の中でネタばらしをしているのです。

高森氏の著者『帝国海軍料理物語』(光人社)によれば、1988年にテレビ局の番組ディレクターから肉じゃがのルーツを探るという番組企画について、「<肉じゃがは海軍にそのルーツがあった>という結論でいきたい。それも最終的に舞鶴にその手がかりがあったということにしたい。(中略)ついては、そのための証拠を明らかにしておいてほしい」という依頼がされ、「ずいぶん乱暴な話」と思いつつも制作に協力した旨が書かれています。この時は調査で発見された昭和13年の海軍資料に似たような料理があったことから「肉じゃがのルーツは海軍にあることが、舞鶴の資料でわかった」とひとまず言えると考え、番組でもそのように紹介されました。この時点では、舞鶴は発祥の地でもなければ、東郷平八郎の名前も出てきません。

ところがその後、この肉じゃがが舞鶴の町おこしになると考えた人がいました。そこから地域や海上自衛隊も巻き込んだ結果、「舞鶴に赴任した東郷平八郎が〜」という'''肉じゃが起源の伝説が90年代中頃に創られました'''。これに呉も便乗する形でうちも発祥の地と名乗りを上げた結果、現在の「肉じゃが発祥の地論争」に至っています。が、そもそも両市ともに肉じゃが発祥の地である根拠はなく、これは分かった上でのプロレスのようなものなのです。

料理の起源にまつわる話はよくわからないものが多く、国民食とも言えるラーメンもその起源はよく分かっていません。肉じゃがの起源も同様ですが、ここに町おこしのネタを見出した人がいたのです。町おこしに「伝説」を用いるのは様々な地域に見られるものですが、伝説と史実はしっかり分けて考えたいものですね。

【参考文献】



また、肉じゃが海軍起源説の経緯と検証については、『と学会誌34』の光デパート「肉じゃが海軍起源説はこうして捏造された」で詳しく解説されており、興味のある方には一読をおすすめする。