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2018年3月15日木曜日

「肉じゃが発祥の地」を巡る真相

Yahoo!ニュースのトピックスに、ABC朝日放送のこんな記事が掲載されていました。

【ABC特集】舞鶴か?呉か?  海軍ゆかりの町の仁義なき「肉じゃが論争」ついに決着か]

記事そのものは肉じゃがの発祥の地を巡って、海軍ゆかりの町である舞鶴と呉の間で争われているという話で、「ついに決着か」とタイトルにありますが、結局は分からずに終わっています。そして記事中、肉じゃがの誕生についてこのように説明されています。

 明治34年(1901年)、海軍鎮守府の長官として、舞鶴に赴任した東郷平八郎は、イギリス留学中に食べたビーフシチューを作るよう料理長に命令。しかし、当時は赤ワインやバターなど手に入らない調味料もあったため、料理長は、しょうゆと砂糖、ごま油を使って味付け。そうして出来上がったのが「肉じゃが」、というのが舞鶴では定説なんだそうです。


日本海軍の東郷平八郎がその誕生に関わったという、肉じゃが誕生の「定説」については、ご存知の方も多いと思います。トピックスにも掲載されたので、多くの方がご覧になったでしょう。しかし、この「定説」について、実際はどうなのでしょうか?

『海軍さんの料理帖』(ホビージャパン)の著者である海軍史研究家の有馬桓次郎氏によれば、シチュー自体は明治初期には既に日本に入ってきており、明治22年に日本海軍が制定した「五等厨夫教育規則」にはシチューの作り方が記載されているそうです。また、赤ワインベースのシチューは当時のヨーロッパでも一般的ではなく、赤ワインを入れるようになったのは近年のことだとか。このことから、「シチューを赤ワインとバターの代わりに、しょうゆと砂糖で味付けしたのが肉じゃが」という肉じゃが発祥説は、「9割がた誤り」としています。

では、なぜ肉じゃが誕生の経緯や発祥の地についての伝説がまことしやかに拡がっているのでしょうか? このことについては、記事中にも登場する海軍料理研究家の高森尚史氏は、自身の著書の中でネタばらしをしているのです。

高森氏の著者『帝国海軍料理物語』(光人社)によれば、1988年にテレビ局の番組ディレクターから肉じゃがのルーツを探るという番組企画について、「<肉じゃがは海軍にそのルーツがあった>という結論でいきたい。それも最終的に舞鶴にその手がかりがあったということにしたい。(中略)ついては、そのための証拠を明らかにしておいてほしい」という依頼がされ、「ずいぶん乱暴な話」と思いつつも制作に協力した旨が書かれています。この時は調査で発見された昭和13年の海軍資料に似たような料理があったことから「肉じゃがのルーツは海軍にあることが、舞鶴の資料でわかった」とひとまず言えると考え、番組でもそのように紹介されました。この時点では、舞鶴は発祥の地でもなければ、東郷平八郎の名前も出てきません。

ところがその後、この肉じゃがが舞鶴の町おこしになると考えた人がいました。そこから地域や海上自衛隊も巻き込んだ結果、「舞鶴に赴任した東郷平八郎が〜」という'''肉じゃが起源の伝説が90年代中頃に創られました'''。これに呉も便乗する形でうちも発祥の地と名乗りを上げた結果、現在の「肉じゃが発祥の地論争」に至っています。が、そもそも両市ともに肉じゃが発祥の地である根拠はなく、これは分かった上でのプロレスのようなものなのです。

料理の起源にまつわる話はよくわからないものが多く、国民食とも言えるラーメンもその起源はよく分かっていません。肉じゃがの起源も同様ですが、ここに町おこしのネタを見出した人がいたのです。町おこしに「伝説」を用いるのは様々な地域に見られるものですが、伝説と史実はしっかり分けて考えたいものですね。

【参考文献】



また、肉じゃが海軍起源説の経緯と検証については、『と学会誌34』の光デパート「肉じゃが海軍起源説はこうして捏造された」で詳しく解説されており、興味のある方には一読をおすすめする。



2015年4月14日火曜日

”大艦巨砲主義”のまぼろし

否定表現としての”大艦巨砲主義”

日本海軍の戦艦大和が沈んでから、今年の4月7日で70年を迎えました。その節目とあってか、いくつかのメディアで大和を題材にした記事を見かけましたが、その一つにこんなのがありました。

世界最大の46センチ主砲が敵戦艦に火を噴くことはなく、この最後の艦隊出撃で、撃墜したとされる敵機はわずか3機だった。大艦巨砲主義の誇大妄想が生んだ不沈戦艦への“信仰”に対し、宗教家の山折哲雄さん(83)は「大和とは、いびつな時代のいびつな象徴だった」と指摘する。



毎日新聞の記事では、宗教家の言葉を引く形で「大艦巨砲主義の誇大妄想」とそれが生んだ「浮沈戦艦への信仰」と、批判的・否定的なトーンで伝えています。NHKでも過去に歴史ドキュメンタリー番組「その時歴史が動いた」で『戦艦大和沈没 大艦巨砲主義の悲劇』を放映していましたし、ざっと例を挙げられるだけでも、戦艦大和を大艦巨砲主義の象徴として批判的に扱うメディアは多いようです。

このように、「第二次大戦では強力な戦艦を主力とする大艦巨砲主義を空母機動部隊を中心とする航空主兵思想が真珠湾攻撃、マレー沖海戦で打ち破ったが、初戦の勝利に囚われた日本は大艦巨砲主義に固執し、逆に初戦の失敗から学んだアメリカは航空戦力で盛り返した」のような説明をする本や人はよく見られますね。

真珠湾攻撃で日本海軍機の攻撃を受ける米戦艦(ウィキメディア・コモンズより

ところで、この大艦巨砲主義という言葉。大雑把に言えば、敵を撃破するために大きな戦艦に巨砲を積むという思想ですが、現在でも時代遅れの考えを批判する際に使われています。近年、メディアでどういう風に使われたのか、ちょっと見てみましょう。


  • 「安倍政権の原発政策は、時代遅れの大艦巨砲主義」(マスコミ市民,2013年8月)
  • 「生産部門におもねる豊田家--復活する「大艦巨砲主義」 」(選択,2011年4月)
  • 「時代錯誤の「大艦巨砲主義」か「日の丸」製造業の大再編」(月刊ベルダ,1999年10月)


製造業に関わる批判例が多いですね。重厚長大な製造業イメージが、大きいフネに巨砲を載せる大艦巨砲主義と重ねて見えるので、このような批判的意味合いを持った比喩表現として使われているのだと思います。いずれにしても、現代において「大艦巨砲主義」とは、敗北のイメージを持った、ネガティブな言葉と言えるでしょう。


大艦巨砲主義ニッポン。戦艦何隻建造した?

では、第二次大戦中の日本はどのくらい大艦巨砲主義に毒されていたのでしょうか? 

第一次大戦後、列強各国は重い財政負担となっていた建艦競争を抑えるため、海軍軍縮条約を結び各国の戦艦建造・保有に制限をかけ、軍拡競争に歯止めをかけました。この軍縮条約以前の時代こそ、大艦巨砲主義と言える思想が世界に蔓延っていたと言っても良いかもしれません。

この海軍軍縮条約は1936年末に失効を迎えたため、以降は自国の好きなだけ戦艦を建造出来ます。大艦巨砲主義の日本は、きっとどこよりも大量に建造している事でしょう。軍縮条約失効以降に建造された戦艦を、日米英の3カ国で比較しました。

海軍軍縮条約失効以降の日米英戦艦建造一覧

……あれ? 建造数・進水数共に日本がブッちぎりで少ないですね。アメリカは12隻起工して10隻進水、イギリスは6隻起工して全て進水させているのに対し、日本は大和型を4隻起工して大和と武蔵の2隻進水、信濃1隻は空母に転用、もう1隻は建造中止で解体されています。戦艦として進水した数で見ると、日米英で2:10:6です。アメリカの5分の1、イギリスの3分の1の数です。さらに言えばイタリアが建造した戦艦(3隻)より日本の建造数は少なく、列強国の中で最低の数です。

こうして各国の戦艦建造実績を比較すると、日本が戦艦に偏重していた訳ではない事が分かります。もっとも、これは多国間の比較であり、工業力の差が現れただけ、という見方もあるかもしれません。

しかしながら、開戦に先立つ1941年11月には大和型戦艦3番艦、4番艦の建造は中止され、後に3番艦は空母に変更されている事からも、開戦準備の段階で戦艦以外の艦艇が優先されているのが分かります。よく見られる言説に「真珠湾攻撃やマレー沖海戦で航空機が戦艦を撃沈し、大艦巨砲主義の時代が終わった」というものがありますが、それらの戦闘が行われる1ヶ月前に日本はこれ以上戦艦を建造しない方針が取られているのです。


次々”航空化”させられた日本の戦艦

ここまでは軍縮条約失効以降の新戦艦建造を見てきましたが、今度は従来から保有していた旧式戦艦の扱いを見てみましょう。

太平洋戦争開戦時、日本は戦艦を10隻保有していましたが(大和型2隻は戦中に就役)、いずれも軍縮条約以前に建造された戦艦で、最も新しい戦艦陸奥でも就役から20年が経過していました。中でも低速で威力の劣る35.6センチ(14インチ)砲搭載の扶桑型・伊勢型の4隻は、戦艦戦力として期待されておらず、伊勢型2隻は航空機を搭載する航空戦艦に改装され、扶桑型2隻は航空戦艦あるいは空母への改装が計画されるほどでした。

航空戦艦改装後の伊勢。後部の主砲が撤去されてる(ウィキメディア・コモンズより

このように戦力価値の低い戦艦は航空戦艦・空母に転用が計画されていた訳ですが、このような方針を大艦巨砲主義を掲げる組織が行うでしょうか? 空母4隻を失ったミッドウェー海戦後も空母や補助艦艇の建造はされますが、戦艦建造は一顧だにされません。対して、イギリスは戦争が終わっても戦艦を作り続けましたし、アメリカに至っては1991年の湾岸戦争でも戦艦を出撃させてますが、別に大艦巨砲主義と呼ばれる事はありません。何かヘンですよね?

湾岸戦争でイラク軍を砲撃する戦艦ミズーリ(ウィキメディア・コモンズより


「巨大」なモノへの信仰から大和を造った?

日本海軍にとっての戦艦の扱いがこのような状況にも関わらず、なぜ日本海軍は大艦巨砲主義だと言われていたのでしょうか?

大和型が世界最大の3連装46センチ(18インチ)砲を搭載していた世界最大の戦艦であった事、つまり「巨大」であった事が考えられます。例えば、先の毎日新聞の記事中では、こんな事が書かれています。

「大国主命、奈良の大仏……。古来、日本人は『巨大なるもの』への信仰がある」。宗教学者の山折さんは説明する。ただし、もちろん、巨大戦艦は神仏などではなかった。



このように、日本人の巨大さそのものへの信仰が大和を生んだとする言説もちょくちょく見られます。しかし、失敗の原因を民族性に求める言説はあまりに大雑把過ぎます。このような言説に対し、航空主兵の尖兵である航空自衛隊教育集団の澄川2等空佐は、大和型建造の目的について以下のように説明し反論しています。

「強力な攻撃力を追求することであって、単なる巨大さへの信奉では決してない。大和級の設計概念は、小さく造る事である。(中略)18インチというという世界最大の艦砲を9門も搭載し、その18インチ砲に対抗しうる防御力を有しながらも、全体が当初の考えどおりコンパクトな艦体にまとめられたというのが大和級戦艦の特徴である」

出典:澄川浩「日本海軍と大艦巨砲主義」朋友26巻4号

大和型は強力な攻撃力と防御力を小さな艦に収めた事を特徴としており、大きい事それ自体は目的では無い、と否定しています。考えてみれば当たり前の話で、大きいとコストもかかれば燃費も悪くなります。大きさに信仰なんてものは関係なく、当時の状況と判断と技術がそうさせた結果であり、信仰にその原因を求めるのは問題を単純化して見ようとする悪い例です。

しかし、大和型を建造させた判断とはどのようなものだったのでしょうか? そして何故、結果的とは言え世界最大になったのでしょうか。大和型建造に至るまでの日本海軍が置かれた状況と、判断を見てみましょう。


なぜ大和は建造された?

当時の状況と判断について、先に挙げた澄川2等空佐が、空自の部内誌で以下のようにまとめています。

演習や実験においていかに航空攻撃力がその可能性を見いだしたとしても、実戦においてその威力を示すまではどのような用兵者もその価値を信じ切るには至らないというのが本当のところだと考える。戦艦無用論がいかに強く提唱されても国の命運を賭けてまで、戦艦の砲戦力を全廃することなど到底採りうる方策ではなかったというのが現実である。

出典:澄川浩「日本海軍と大艦巨砲主義」朋友26巻4号


大和型以前の日本戦艦、つまり建造から20年近く経過した旧式戦艦では、海軍軍縮条約失効後に建造される他国の新戦艦に対抗出来ませんでした。しかも、大和型が計画された当時はまだ、澄川2佐が言うように、航空機による戦艦撃破は一度も実証されていません。実験では撃破の可能性が示唆されていたものの、停泊中の戦艦に対しては1940年のタラント空襲と1941年の真珠湾攻撃、作戦行動中の戦艦に対しては1941年のマレー沖海戦が起きるまで実例がありませんでした。このため、対抗上新戦艦が必要だったのです。

サウスダコタ級戦艦マサチューセッツ(写真中央、ウィキメディア・コモンズより



大和型が巨砲を持って生まれたのも理由があります。当時の日本の国力では空母建造と並行して戦艦を揃えるのは不可能なため、建造出来る戦艦の数は限られました。数の劣位を、質でなんとか埋めようとしていたのです。戦艦は最も大量生産からかけ離れた兵器で、アメリカでも戦艦を同じ海域に大量投入する事は難しかったため、この考えはそれなりに説得力がありました。


大和型が活躍出来なかったのは何故?

しかしながら、大和型建造が大艦巨砲主義によるものではないとしても、大和型はさして戦果を挙げていません。この事実は、大艦巨砲主義の欠陥を説明する上で、よく根拠として出されているものです。トラック泊地に投錨したままの状態が多かった大和は、「大和ホテル」とアダ名されたと言われています。ソロモン諸島やニューギニアで熾烈な海戦が行われ、アメリカの新戦艦サウスダコタ、ワシントンに戦艦霧島が撃沈される戦艦同士の砲撃戦も発生していましたが、大和はそれに加わりませんでした。

この原因として、城西国際大学の森雅雄准教授はいくつかの説を挙げています。

  • 大和には聯合艦隊司令部が置かれているので容易に移動できない
  • 燃料の不足(宇垣纏第一戦隊司令、淵田美津雄航空参謀ら)
  • 怯懦(きょうだ)のせい(御田俊一)

このように推測出来る理由は複数ありますが、だからと言って戦艦が活躍出来なかった訳ではありません。森准教授・澄川2佐共に、日本が保有する戦艦で最も古い金剛型4隻が忙しく太平洋を行き来し、戦艦同士の戦闘から陸上砲撃、艦隊護衛と幅広い任務で活躍を見せている事を指摘しています。最古参の金剛型でこれですから、最新の大和型が活躍出来ない道理は無いのですが、結局のところ、日本海軍は大和型に活躍の場を与えることが出来なかったのです。これは上述の理由の通り、大艦巨砲主義に由来するものではありませんでした。


国民が望んだ大艦巨砲主義敗北論

さて、ここまでで日本海軍は大艦巨砲主義のように凝り固まった思想で大和を建造したのではなく、むしろ航空戦力への投資に重点を置きつつ、それなりの妥当性を持って大和の建造に臨んだ事がご理解頂けたと思います。

しかしこうなると、なんで大艦巨砲主義を信奉した日本海軍は敗れた、という言説がこれまでまかり通って来たのでしょうか?

このような戦後の「大艦巨砲主義批判」について、森准教授は「この批判はイデオロギーであると断じる」と結論付けています。

森准教授は最も早い1949年に出された日米戦回顧録である高木惣吉「太平洋海戦史」に着目し、その中に書かれた日本が初戦の勝利に驕って航空軍備拡張に立ち遅れたという記述が、「太平洋海戦史」の1年半後に出版された淵田美津雄・奥宮正武「ミッドウェー」で「戦艦中心主義の時代錯誤」が加えられ、それがベストセラーとなった事を指摘しています。「大艦巨砲主義」を理由とした敗戦は、物量に負けたという実感的な理由よりも、「より周到であり反省の契機もあって、より上等で良心的で服従するに足りるように見える」(森准教授)ので、国民に受け入れられたのです。


淵田・奥宮著「ミッドウェー」。(Amazonより)
そりゃ、著者が航空参謀だから戦艦を悪く書くよね…。

一方、澄川2佐はもっと容赦の無い結論を導いています。

戦前の戦争計画では、侵攻してくるアメリカ海軍の戦力を削りつつ、最終的に日本の委任統治領である南洋諸島で決戦を行って撃滅する想定でした(漸減作戦)。戦中の日本海軍はその為に航空戦力・空母戦力の整備に注力し、1944年にほぼ企図した通りにマリアナ沖海戦が展開され、その結果日本は一方的に敗北しました。このように澄川2佐は、日本海軍の想定通りに進んだけど負けた事を指摘しており、アメリカに戦争を挑んだ事自体が敗因だと結論付けています。対アメリカを想定して戦争準備してきたのに、アメリカに戦争を挑んだ事自体が敗因だとすると、大艦巨砲主義・航空主兵思想以前の問題です。

大和建造が間違いだったのではなく、日本人が選んだ道である対アメリカ戦争そのものが間違っていたという結論は、日本人にとって、残酷で不都合な真実でもありました。敗戦の理由を知りたがっていた日本人にとって、「航空戦力を軽んじた大艦巨砲主義」というのは、自分が傷つかない心地よい敗因だったのです。戦後に「大艦巨砲主義批判」を行った人も同様で、批判者に南雲艦隊の源田実航空参謀や、先述の淵田・奥宮両氏のような航空参謀出身者が多い事からもそれが伺えます。敗因を大艦巨砲主義のせいにすれば、航空参謀としての自分の責任を回避でき、自分は傷つかずに済みます。


戦艦大和(ウィキメディア・コモンズより

間違った戦争のおかげで大した活躍も出来ず沈んだ大和は、日本人にとって「間違った選択」の象徴として祀り上げるには都合の良い存在だったのです。本当はもっと根本部分で間違えていたにも関わらず、です。

日本国民にとって、なんとも歯がゆい結論に至ってしまいました。しかし、戦後70年を経た今、これを読んでいるほとんどの方は、大戦の問題からは自由なはずです。そろそろ本当の敗因を見つめ直し、誤った選択を繰り返さないために考えてみるべきではないでしょうか。そして、大艦巨砲主義の象徴のような不名誉かつ誤った扱いから、彼女らを解放してあげてもいいと思うのですが……。


【参考文献及び資料】

森雅雄「イデオロギーとしての「大艦巨砲主義批判」」,『城西国際大学紀要』第21巻 第3号 国際人文学部,2012年

「大艦巨砲主義批判」の言説を検証し、イデオロギーと結論づけている。その過程において、これまで大艦巨砲主義の証拠とされてきたものの不確かさ、誤謬について指摘し、米海軍における機動部隊の編成等の比較を行っている。米海軍の戦艦愛が伝わる発言集もいい。ネットで読めます。


澄川浩「日本海軍と大艦巨砲主義」,『朋友』26巻4号, 2000年

航空自衛隊の部内研究誌に掲載された論考(階級は当時)。日米のデータ比較と実際の戦況から、漸減作戦、艦隊決戦思想までに及ぶ批判に対して反論を行っており、主張が極めて明快。ネットで読めないけど、コピー入手してでも読む価値あり。


トシ・ヨシハラ「比較の視点から見た接近阻止―大日本帝国、ソ連、21世紀の中国―」

米海軍大学の中国専門家による接近阻止戦略の比較。米海軍に対する接近阻止戦略について、日本帝国の漸減作戦、旧ソ連の集中的ミサイル攻撃、現在の中国のA2ADを比較し、その共通点、相違点を考察。そして、現在において米中戦争が生起した場合、凄惨なものになると予測している。ネットで読めます。





2014年9月4日木曜日

日本海軍から地続きの海上自衛隊のいじめ問題

海上自衛隊の護衛艦乗員が、度重なるいじめを苦に自殺したとされる事件が報じられています。

海上自衛隊横須賀地方総監部(神奈川県横須賀市)は1日、横須賀基地に配備されている護衛艦所属の男性隊員が、昨年10月以降に男性1等海曹(42)から繰り返し暴行などのいじめを受け、今年に入って自殺したと発表した。海上自衛隊警務隊は1等海曹を暴行と器物損壊の容疑で書類送検する方針。


海上自衛隊ではたびたびいじめが問題になっています。2004年にも護衛艦"たちかぜ"の乗員が自殺し、家族にあてた遺書にいじめの事実が書かれていたため、遺族が国に対して訴訟を起こす事態となりました。この裁判の過程で、海自が"たちかぜ"乗員に実施した、自殺した隊員への暴行等の有無を尋ねるアンケート結果の公開を遺族が求めたところ、海自はアンケート結果は破棄したと回答していました。ところが、調査を担当した三等海佐がアンケート結果は破棄されていないと内部告発した事で、海自の組織的隠蔽が明らかになるスキャンダルにまで発展しました。今年4月には東京高裁が遺族の主張を認め、国に7300万円の賠償を命じる判決を言い渡し、遺族・国双方が上告しなかったことで判決が確定しました。このような事件があっただけに、今回の海自の対応はかなり早いもので、海自トップの海上幕僚長が公表するなど、かなりの危機意識を抱いてたものと考えられます。

この他にも、1999年から2000年の2年間で護衛艦"さわぎり"で4件の自殺・自殺未遂が相次いだ事、2000年には広島県にある海自第一術科学校で集団暴行事件があり、生徒が家族に「殺される」と電話して保護される事件が起きています。

このようにいじめ、自殺問題が相次いでいる海上自衛隊ですが、これらの背景はなんでしょうか。その答えの一端が海上自衛隊の前身である、日本帝国海軍にありました。



戦艦4隻を"撃沈"した海軍内部の規律の緩み

2009年から2011年にかけて、NHKで放映されたドラマ「坂の上の雲」をご覧になった方は多いと思います。2011年末に放映された最終回では、日本海海戦で戦艦"三笠"を旗艦とした連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に勝利しますが、その三笠は日露戦争終結直後の1905年9月に佐世保港で大爆発を起こして沈没し、日本海海戦での損害を超える251名の死者を出している事はドラマの中では語られていません。

戦艦三笠。日本海海戦の勝利の4ヶ月後、人為的と考えられる事故で爆沈する
三笠の爆沈を皮切りに、1906年に二等巡洋艦”松島”が爆沈、1917年には横須賀港に停泊中の巡洋戦艦”筑波”が爆沈。翌1918年には日本初の弩級戦艦”河内”が徳山湾で爆沈するなど、明治から大正にかけての日本海軍では艦艇の爆発事故が相次ぎました。1918年の河内を最後に爆発事故は影を潜めますが、大戦中の1943年には再び戦艦”陸奥”が爆沈。1100名以上の死者を出す大惨事となりました。これら日本海軍の軍艦爆発事故は、原因不明としているものもありますが、そのいずれも人為的原因が有力視されています。

日本海軍主力艦艇の火薬庫関連事故一覧
40年の間で日本海軍の主力である戦艦が4隻も爆発事故で沈んでおり、そのいずれも人為的原因が疑われている事は衝撃的です。その背景には、規律の乱れが挙げられています。1905年の三笠爆沈では規則を破り、発光信号用のアルコールで飲酒している際の失火で起きたという証言があり、同様に松島でも火薬庫が隠れた飲酒スペースになっていたという証言があります。筑波では火薬庫の鍵管理が杜撰であった事、容疑者と目される乗員が事故当日に窃盗容疑で上官から4時間以上の殴打を伴う私的制裁を受け、精神的に不安定になっていた事が明らかになっています。続く河内爆沈の調査でも、筑波の教訓を受けて防止措置を指示した訓令が河内で実施されておらず、それどころか防護巡洋艦”利根”を除く全艦艇で、訓令の通り行われていなかった事が明らかになり、艦隊全体の規律の緩みに海軍上層部は衝撃を受けます。



緩慢なストレスによる人間関係と規律の崩壊

では、なぜ日本海軍や海上自衛隊で規律違反が目立つのでしょうか。1つの仮説として、閉鎖的で密接な人間関係を強いられる艦艇勤務に答えがあるのかもしれません。

自衛隊の看護師である看護官らがまとめた「防衛看護学」では、自衛隊の国際平和協力活動でのストレスモデルをHIS(高強度ストレス)とLIS(低強度ストレス)の2つに分類しています。HISは戦闘や自然災害等の危機状況下における過度の緊張や、惨事を目撃した事によるショック等の強いストレスの事で、帰還兵の社会不適合やPTSDの原因ともされています。一方、LISは普段の繰り返す単調な任務や長い待機によって、達成感やモチベーションが失われる事による緩慢なストレスを指し、上官への反抗、仲違い、個人をスケープゴートとする等、組織内の人間関係の不調和の原因とされています。

近年、自衛隊のイラク派遣経験者の自殺率の高さが報道されており、NHKの特集では過酷なイラクでのストレスを原因と推測していましたが、必ずしもそうとは言えないようです。というのは、イラク派遣ではLISが大きな問題とされ、隊内の人間関係に問題が生じていたからです。イラク派遣では自衛隊は砂漠に宿営地を建設し、宿営地を拠点にインフラ建設や給水活動を行っていました。閉鎖的な宿営地での生活と、任務に従事する日々がLISをもたらしたと考えられ、結果的に隊員間の人間関係の不和に問題が生じています。

自衛隊のサマーワ宿営地。単調な砂漠に囲まれた生活(Google Earthより)

転じて、海上自衛隊の艦艇勤務ではどうでしょうか。艦艇勤務は艦内で数百人の乗員が生活を共にしており、公私に渡り密接な人間関係が強いられる環境にあります。このような環境に加え、繰り返される訓練、不規則な勤務、長期の航海等のストレス要因は多くあり、それらがモチベーションの低下と規律の緩みに繋がる事は十二分に考えられます。事実、近年も規律違反による重大事故が起きており、2007年には護衛艦"しらね"で正規の手続きを通さず乗員が持ち込んだ冷温庫から出火し、護衛艦の中枢である戦闘情報センター(CIC)が全焼する事態となりました。また、今年の自殺事件では上官による暴行や金銭の要求が明らかになっていますが、2000年頃に自殺が相次いだ"さわぎり"に至っては、加害乗員による飲酒等の規律違反、更には賭博、恐喝、横領等の犯罪行為も明らかになっています。

先に挙げた日本海軍の例でも、事故の前に盗難、暴行、発表前に昇進情報が漏れる等、規律の緩みがそこかしこに見られました。そして、精神に不調を来した乗員による放火が疑われる爆発事故に至っています。このような規律の緩みと、それに伴う乗員の精神不調が、軍艦爆沈という最悪の事態を引き起こしたのかもしれません。



いかに未然に悲劇を防ぐか

艦艇という閉鎖空間に縛られざるを得ない海軍・海上自衛隊にとって、ストレスの構造的要因そのものを変える事は難しいと思われます。このように構造的要因の改善が難しい以上、いかに早く問題をキャッチアップして、改善に繋げるよう努める事が次善の策となると思われます。しかし、今年起きた自殺では相談された幹部が問題を認識せず、被害聞き取りに加害者を同席させる等、問題ある対応をしていた事が報じられています。

自衛隊ではメンタルケアの実行主体は部隊長とされており、専門的知識を持つカウンセラー等の役割・権限は明確でありません。メンタルケアが部隊長の認識に大きく左右される事が、今回の誤った対応を招いたのではないでしょうか。また、艦艇では各部署の長の力が強く、苦情の受理者である艦長に一般乗員が相談するという事自体が難しいという背景もあります。事実、”さわぎり”で自殺した三等海曹は、上長の機関長ですら「雲の上の存在」だったと生前に語っていたとされます。

自衛隊はプロフェッショナルの集団です。隊員や部隊の役割は細分化されており、それぞれが専門的な技能と経験を有しています。そのプロフェッショナル集団で、メンタルケアが専門家の手に委ねられておらず、実施者も未熟な認識で取り返しのつかないミスをした現状は恥ずべきものではないでしょうか。メンタルケアにおいても、プロフェッショナルの集団となって欲しいものです。

※(9/4,13:00訂正)今年の自殺事件で、被害者が艦長に相談していたと書きましたが、正しくは幹部でした。お詫びして訂正致します。


【関連】


吉村昭「陸奥爆沈」

本稿の種本その1。歴史小説家吉村昭による戦艦陸奥爆沈を追ったルポ小説。
爆沈原因を探る査問委員会で、次々と浮かんでは可能性無しと消えていく技術的要因による爆発説。そして、委員は最後の可能性の検討を始める。乗員自身による放火説を……。
関係者による綿密な聞き取り取材と資料調査により書かれた本書は、小説でありながら、後述する防衛省防衛研究所の論考でも賞賛される傑作ルポとなっている。


「防衛看護学」

種本その2。自衛隊の看護師である看護官によって書かれた、防衛分野に特化した看護の解説書。戦闘や災害での負傷の対処法から、設備が整っていない地域での治療等、一般的な看護で見られないシチュエーションでの看護法について説明されている。もちろん、自衛隊のメンタルヘルスについても1章を割かれて解説されている。


山本正雄「軍艦爆沈事故と海軍当局の対応 -査問会による事故調査の実態とその規則変遷に関する考察-」

防衛省防衛研究所研究員による論考。日本海軍での軍艦爆発事故は当初自然発火説が取られていたが、相次ぐ爆発事故により海軍当局が人為的要因を直視せざるを得なくなり、人為的要因を考慮した防止策の徹底により、河内から陸奥まで25年間爆発事故の予防に繋がった事を示唆している。