ドローン中継を各地でしていた15歳の少年が逮捕されましたね。この少年は動画配信を始めてから学校を退学し、視聴者の煽りに乗せられるままに過激な放送を行っていたそうです。親がPC没収、小遣いの打ち切りに出ても、ネット経由で視聴者が金銭やPC、ドローンを与えて放送を続けさせた結果、今回の逮捕という結末になりました。人生を狂わされた少年が支払った代償は計り知れませんが、煽った視聴者は責任を問われる事もなければ、なんの代償も払う事はないでしょう。
放送で楽しんでいたという点で少年も視聴者も同じですが、両者が負担するコストには、あまりに大きな不均衡が存在しています。この点を踏まえて、文民統制の話に移ります。
軍の暴走を抑止する文民統制
安全保障関連の法律の改正、制定が続いております。先日も防衛省設置法が衆議院で採決されました。防衛省の内局官僚(背広組)と自衛官(制服組)を対等に位置づける同省設置法改正案が15日の衆院本会議で採決され、与党と維新の党などの賛成多数で可決、参院に送付された。民主党などは「文民統制(シビリアンコントロール)」を弱めるなどとして反対した。
防衛省設置法改正を巡る議論の焦点は、防衛省内で内局官僚(背広組)より立場が下だった自衛官(制服組)を、背広組と対等の関係にする事でした。これにより自衛隊運用の効率化を図るとしていますが、野党からは文民による統制、シビリアンコントロールが弱まるという批判が出ています。
ここで、文民統制とはなんなのか、一度振り返ってみましょう。
「文民統制(シビリアン・コントロール)とは、『議会に責任を負っている大臣(文民)が軍事権をコントロールして、軍の独走を抑止する原則』です。(中略)簡単に言えば、自衛隊が独り歩きして、戦争をすることを防ぐためです。」
文民統制は「軍の独走」を抑止する原則で、戦争を防止するための機能を持つということです。野党は制服組の発言力が高まる事で、文民統制が弱まると懸念しているのです。
このような野党の批判に対し、今回の改正は防衛省内の「文官優位」を是正するもので、政府による文民統制はむしろ強まるという反論が政府からされています。
この政府・野党の文民統制を巡る議論を見てみると、文民統制が「軍の独走」を抑え、戦争を抑止する働きを持つという認識を、政府・野党は共有している事が分かります。
戦争に突き進む、好戦的な文民統制
しかし、本当に文民統制が戦争を抑止するのでしょうか?この命題に対し、国際政治学者の三浦瑠麗氏はその著書「シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき」で、民主主義が確立した国で文民が主導する「成熟したデモクラシーによる戦争」がしばしば行われている事を指摘しています。
「アルゼンチンに負けるはずの戦争」として軍が反対したフォークランド紛争、抑制的だった軍にホワイトハウスのタカ派が圧力をかけた湾岸戦争、戦争のコストが低く見積もられていると陸軍や海兵隊が激しく反対したイラク戦争、93%の国民が戦争を支持した第二次レバノン紛争……。三浦氏はこれら民主主義国による戦争で、「抑制的な軍」「好戦的な文民」といった構図があり、抑制的な軍を押し切って文民が戦端を開いた事を明らかにしています。文民統制がしっかしりているからこそ、軍事のプロフェッショナルである軍が反対しても、アマチュアである暴走した文民の意向に軍は従う他ありません。
市民の前で整列する自衛官(筆者撮影) |
特定の国の特殊例だという意見もあるかもしれません。しかし、過去の日本にもこのような例は存在します。日清戦争が開戦に至った理由を、日本国内の「衆意」の存在に求める研究があります。政権内の対清強硬派の存在に加え、当時の強硬論を唱えるジャーナリズムがあり、総選挙を控えた伊藤内閣は戦争に踏み切らざるを得なかったというものです。このように、好戦的な文民による戦争は普遍的に見られるようです。
軍の暴走による戦争は抑止するが、文民の暴走による戦争は抑止できない。これが文民統制の限界なのです。
文民による戦争を防ぐには
好戦的な文民による戦争を防ぐにはどうすればよいでしょうか。三浦氏はデモクラシーを「共和国」に近づけることを提案しています。ここでいう「共和国」とは、政策決定への自由な参加とその結果を応分に負担しあう国家像の事を指します。イラク戦争では戦争を始めたのは文民でしたが、大量の戦死者という形で犠牲を払ったのは軍人でした。このように文民と軍人の間で、負担の不均衡が生じており、それによって文民による戦争への敷居が下がっているのです。三浦氏は「共和国」提案の中で、軍の経験や価値観を共有する国民を増やすため、緩やかな徴兵制の復活といった刺激的な具体策を挙げています。徴兵制復活は議論の余地が大きいでしょうが、文民が戦争の結果を応分に負担する方策と言うと、他に思いつきそうにありません。なにせ、軍人のかけるコストは命なのですから。
しかし、現実的に徴兵制は世界から消えつつあります。こうなった場合、それ以外の方法で「抑制的な文民」を実現する制度を構築する必要があります。一つの解として、憲法9条のように、戦争による問題解決をあらかじめ禁止しておく方法もあるでしょう(9条は武力の保持も禁止していますが、それはひとまず置いておくとして)。しかし、先にあげられたフォークランド紛争のような主権の侵害に対する反撃となると、現在離島防衛が議論されている事などを踏まえると、いささか9条でも抑止効果は期待出来ないのかもしれません。
人が抑制的であるのは難しい事だと思います。ましてや、自分のよく知らない事なら、過激な選択にブレてしまう事もあるかもしれません。この問題の解決策にならない事を承知の上で言いますが、実質的なコストを払う側にもう少し意識を向けてみてはどうでしょうか。冒頭に挙げた少年も、視聴者がそうだったなら違った結末もあったのかもしれません。
図らずも一人の少年に民主主義国家の戦争の縮図を見ました。応分なコストを引き受ける覚悟、貴方にはありますか?
【関連】
三浦瑠麗「シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき」
正直に書くと、これが岩波から出たのか、と驚いたくらい刺激的な本です。
文民的な政権が戦争に走る。それも国民に不人気な予備役動員をしない等の制約を付けるものだから、代わりに戦地で軍人が死に、戦争の政治的目標も達せられないという例すらあり、文民が起こす戦争の醜さを描き出しております。文民統制を考える上で必読。
大谷正「日清戦争」 (中公新書)
近代日本最初の対外戦争である日清戦争のコンパクトな通史。
東学党の乱に出兵したものの、部隊が着いたら既に乱は収束してて、振り上げた拳を下ろす先が無いから撤兵出来ない。世論は強硬論で総選挙前、もう収拾には開戦するしかないという、グダグダな経緯が簡潔に分かります。そりゃ、開戦の50日前でも、中国沿岸を当時まだ小さい日本海軍がのんびり航行してるワケだわ。
軍部の独走などで語られる事の多い日本の戦争ですが、元老がいて政府が機能していた明治でも文民的な戦争がありましたという点で、今読むと考えさせられるものがあります。
0 件のコメント:
コメントを投稿