2008年7月26日土曜日

幻のてき弾銃



 第一次大戦下の1916年9月15日、ソンムにおいてイギリス軍が戦車を史上初めて実戦投入しました。ほとんどの歩兵火器が効かない歩兵の敵の出現により、従来の歩兵火器の系統から枝分かれし、別の進化を辿ることになる火器、即ち対戦車火器が生まれることになります。


 戦車の出現に対して、当初のドイツ軍は遠距離射撃・拠点攻撃用に小銃で使われていたタングステン鋼弾芯のK弾を対戦車徹甲弾として小銃手1人につき5発支給することで対応しますが、1917年6月にイギリス軍がK弾に耐える装甲を持ったMK.IV戦車を投入したため、新たな対策を迫られます。この結果、1918年に世界初の対戦車火器(対戦車ライフル)であるモーゼルT型小銃(口径13mm)が誕生しました。しかしながら、対戦車ライフルは戦車が急激に発達した第二次世界大戦を機に衰退し、現在は対物ライフルとして復活したものの、対戦車火器としての性格は薄くなってしまいました。


 そして現在、対戦車火器の主流は成型炸薬弾(HEAT)となっています。携行型対戦車火器としての成型炸薬弾には様々な投射手段がありますが、現在はミサイル(誘導弾)、無反動砲、ロケット(若しくは、RPG-7の様に無反動砲とロケット推進を合わせたもの)が主流となっています。さらに軽装甲車両・対人用として、小銃てき弾・てき弾銃(グレネードランチャー)があり、前者は自衛隊の06式小銃てき弾、後者はアメリカのM203、M79グレネードランチャー等があります。


 過去にはイギリス軍のPIATの様なバネと火薬の推進力で発射する変態チックなモノもありましたが、おおむね戦後は上に挙げたモノが対戦車火器の主役となっています。しかしながら、開発されたものの制式化されず、お蔵入りしてしまった変わり種の対戦車兵器が戦後もありました。名前こそ「てき弾銃」ではあるものの、その形状は従来の「てき弾銃」とは大きく異なるものでした。そして、それを開発していたのは日本です。本稿ではその姿に迫ってみたいと思います。





まずは


 軍事アナリストとして著名な小川和久氏の著書、「戦艦ミズーリの長い影」では自衛隊の装備開発の問題点を指摘しています。この本は首肯しかねる部分も多いのですが、常に装備調達契約のトップであるために「政商」と批判される三菱重工を「企業努力と研究開発上の蓄積」による結果と擁護したこと等、評価できる点もあるので自衛隊の装備開発に興味のある方は一読をお勧めします。


 話を戻します。この「戦艦ミズーリの長い影」で小川氏は、てき弾銃の開発とその失敗について触れ「失敗した研究開発は、それこそ跡形も残らぬほど、徹底的に“証拠隠滅”が図られる。その代表例ともいえるのが、擲弾銃のケースだろう」とまで述べています。この小川氏の表現は相当オーバーなものだとは思いますが(資料手に入るし)、てき弾銃の開発にある種の問題が内包されていたことは事実と思います。まずは、その概要と経緯を探ってみましょう。





概要


 てき弾銃とは言っても、現在の96式40mm自動てき弾銃とは大きく異なるもので、当時使われていた小銃擲弾及び89ミリロケット弾発射器の後継として、至近距離に置いて対戦車攻撃・一般地上目標の制圧のために開発されたものです。主要な要目はこの通りになっています。


口径:66mm


弾種:対人榴弾・対戦車弾の2種


重量:約8kg


特徴:後方爆風無し。屋内からでも射撃可能。ロケット推進併用。


 映像資料をニコニコにアップしましたので、概要はてっとり早くそちらへどうぞ。以下の映像になります。色々な事情からアレなとこがありますが、そこはお察し下さい。



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開発までの経緯


 昭和40年代、陸上自衛隊の普通科部隊における携行型対戦車火器は、朝鮮戦争で活躍した89ミリロケット発射器(M20A1、通称スーパーバズーカ)が主力でしたが、戦車の高度化に伴い陳腐化が懸念されていました。そのために89ミリロケット発射器の後継装備として、1972年よりてき弾銃の研究が進められます。ところが、この研究の段階で問題があったと小川氏は指摘しています。これを理解する為の助けとして、装備開発の流れを下に図式化しました。


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※火器弾薬技術ハンドブックより作成


 上図のフローは兵器が構想、研究、開発を経て装備化される流れを表しており、図の下段は防衛省の用語に置き換えたものです。所内研究は技研本部の各研究所が行う考案・調査研究、研究試作は技研本部・研究所の開発官が行う開発段階における研究段階の試作となっています。研究所で技術的可能性が検討されてから、開発官が研究試作を行うという手順で研究開発が行われるのですが、小川氏によれば、この「技術的可能性の検討」にてき弾銃開発の問題があるそうです。


 では問題とはなんでしょうか。それは、てき弾銃の研究として第一研究所(現・先進技術推進センター)が製作した装置が銃の形をしていたため、内局の担当者が「研究所が開発するとは何事か」と怒り、研究が完了しないまま開発官に開発を命じてしまった、というのです。先ほど述べた通り、研究所→開発官というフローでは研究所は研究を行い、開発は開発官が行うことになっています。要はこの内局の担当者は、研究所が勝手に開発を始めたと誤解して怒り、研究フローをすっ飛ばして開発を始めさせてしまったという下らない話だったということです。


追記(2008/8/1):また、「技術研究本部は勝手に装備品を企画・開発することができない」とのご指摘を当記事のコメント欄で受けました。内局の担当者が怒った原因がここにあり、内局以前に正常な研究開発フローからの逸脱があったそうです。ご指摘された、さむざむ。氏に感謝します。





開発


 そんなこんなで、てき弾銃開発は技術的可能性が曖昧なまま、見切り発車でスタートします。ここで、その開発経緯を以下に図式化してみました。


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 研究3年、開発6年、実用試験3年となっています。自衛隊最新の携行対戦車火器である01式軽対戦車誘導弾の試作・技術試験・実用試験が合わせて4年で終了したことを考えると、非常に長い開発期間と言えるでしょう。この期間の長さから、開発段階で相当の苦労があったと推測されます。実際、開発中で直面した大きな問題はその命中精度にあったようです。61式戦車、74式戦車の開発にも携わられ、陸上開発官としててき弾銃の開発トップだった近藤清秀氏は、開発の初期ではせいぜい20%の命中率、日産自動車の宇宙開発部(現・IHIエアロスペース)がロケット部分を担当するようになると、80%ほどの命中率にまで上がったと語っています。


 さてこの近藤氏の話で具体的な企業名が出てきたので、てき弾銃の開発関係企業を整理してみましょう。てき弾銃開発の初期は銃器を豊和工業、弾薬をダイキン工業が開発担当していましたが、昭和46年度にダイキン工業は開発を辞退し、代わりに日産自動車が弾薬の開発を行った模様です。各社のてき弾銃開発に関する見解の要約を以下に示します。


豊和工業:日産と10年かけて開発したが、防衛庁の要求性能を満足できず研究中止。


ダイキン工業:対機甲弾開発に技術面で行き詰り、昭和46年度に開発を辞退。他社が50年から54年にかけて開発試作を行ったが、目処がつかずに開発テーマ終了。


日産自動車:言及資料見つからず。


技術研究本部・近藤氏:最初は20%、日産が係ると80%の命中率になった。


 いくつか微妙な違いがありますが、これらを突き合わせると、


 「豊和とダイキンが開発していたが、弾薬担当のダイキンは対機甲弾の開発に行き詰り辞退し、代わって日産が弾薬を担当したところ飛躍的に改善はしたものの、結局はダメだった」というところでしょうか。今まで挙がってきた証言などから推測すると、どうも問題は対戦車弾にあるようです。


 先ほどの映像は装備開発実験隊による実用試験ですので、開発の後期段階のものと推測されます。ということは、改善されたはずの日産製対戦車弾が使用されているものと考えられますが、映像を見る限り実用に値するかは疑問が残ります。別の映像では非常に強い反動で砲口が上がり、標的上方に弾着するケースが散見できました。隊員の苦笑交じりの呟きも聞こえるなど、試験結果も芳しくなかったシーンもあります。比較対象として、同じく口径66mmのM72ロケットランチャーの発射の際の反動を見てみましょう。



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 M72は後方爆風の問題こそあるものの、ほぼ無反動といってもよいほど安定した射撃です。同じ口径でこれほどの差があるのは問題でしょう。


 結局、実用試験を経てもてき弾銃の装備化は行われず、開発は失敗しました。てき弾銃が務めるかもしれなかった89ミリロケット発射器後継は、スウェーデンのFFV社が開発したカールグスタフ無反動砲に決定します。実はこのカールグスタフ、てき弾銃開発に行き詰った豊和工業とダイキン工業が昭和46年に欧州に視察・技術調査を行った際にFFV社より説明を受けて報告書を防衛庁に提出しており、カールグスタフ導入への支援になったという因果な話があります。





開発の問題点


 このてき弾銃開発にあたっての最大の問題は、小川氏の言う通り、研究の成果を見極める前に開発に移行してしまったことに尽きるでしょう。十分な時間を与えることが許されずに失敗した兵器開発プロジェクトはどの国にもありますが、わが国においててき弾銃はその代表とも言える例ではないでしょうか。


 しかしながら、てき弾銃が仮に装備化に成功したとしても、66ミリという小さな口径でどれだけ対戦車戦に貢献できたかは疑問の余地があります。同口径のM72が、米軍では対装甲車輌としてではなく、対人・対拠点攻撃に活用されていたこと。陸上自衛隊でも口径84mmのカールグスタフを補完する形で、さらに強力な口径110mmのパンツァーファウスト3を採用していることを考えると、対戦車火器としてのてき弾銃の寿命はかなり短いものになっていたのかもしれません。





そして


 てき弾銃の開発が失敗に終わった20年後、カールグスタフの後継として01式軽対戦車誘導弾が開発されます。この01式は掩蓋内射撃が可能という対戦車火器という、てき弾銃の最大の特徴を備えている点は注目に値するでしょう。また、てき弾銃の開発経緯と比較すると面白いことが分かります。01式はてき弾銃より研究期間が1年長い4年である反面、開発・実用試験は4年でてき弾銃の7年より3年短い期間で終了しています。研究に時間を割けたことで、開発側の負担を減らして全体の効率化を達成することができた例と言えるでしょう。01式の成功によって、てき弾銃開発失敗の汚名を返上できたようです。


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 現在、てき弾銃は土浦駐屯地の陸上自衛隊武器学校の資料館に展示されています。写真撮影は禁止されていますので、こちらには写真を掲載することはできませんが、興味のある方はイベントの際にでも寄られてみてはいかがでしょうか。


2008/11/16 追記:11/15の武器学校創立記念行事では写真撮影がOKでしたので、撮ってきました。


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参考文献


小川和久「戦艦ミズーリの長い影」文藝春秋


ジョン・ウィークス「対戦車戦 戦車と戦う人間」原書房


弾道学研究会 編「火器弾薬技術ハンドブック」防衛技術協会


ダイキン工業株式会社社史編集委員会「ダイキン工業70年史」ダイキン工業


豊和工業「豊和工業八十年史」豊和工業


小林源文「武器と弾薬 悪夢のメカニズム図鑑」大日本絵画


戸梶功「軽対戦車誘導弾の開発について」防衛技術ジャーナル 2002年3月